ワルシャワ蜂起
概要
赤軍がヴィスワの対岸まで来た日、国内軍が立った。63日。ソ連軍は川の向こうで止まった。連合国の空輸は届かなかった。市民20万人が死に、ドイツは街を計画的に壊した。85%。赤軍は5か月後に瓦礫に入った。ゲットー蜂起の1年後の、二度目の蜂起。
場所
52.23°N 21.01°E · ポーランド
本文
1944年8月1日、午後5時。ワルシャワの街のあちこちで、いっせいに銃声が上がった。5年近くドイツに占領されてきたポーランドの首都で、地下の抵抗組織「国内軍」が蜂起したのである。ソ連の赤軍は、すでにヴィスワ川の東岸まで迫っていた。蜂起した人びとは、ソ連軍が来る前に自分たちの手で首都を解放しようとした。戦いは63日続き、街は廃墟になった。
1939年9月、ポーランドは西からドイツに、東からソ連に攻め込まれて分割された(独ソ不可侵条約)。政府はロンドンに逃れて亡命政府を作り、国内には、その指示を受ける地下国家が築かれた。秘密の学校や裁判所、新聞まで持つ抵抗の網で、その軍事組織が国内軍だった。最盛期には全国で数十万人が加わっていたとされる。ドイツはポーランド人を劣った民族として扱い、知識人を殺し、多くの人を強制労働に送った。ワルシャワのユダヤ人はゲットーに閉じ込められ、1943年春にはワルシャワ・ゲットー蜂起が起きたが、ゲットーは焼き払われた。
亡命政府とソ連の関係は、最悪だった。1943年、ソ連領のカティンの森で、ソ連が殺したポーランド軍将校たちの遺体が見つかり(カティンの森)、亡命政府が国際的な調査を求めると、ヨシフ・スターリンは亡命政府との関係を断った。1944年夏、ソ連軍がポーランドの領内に入ると、スターリンは7月、自分の言うことを聞く共産主義者たちの「ポーランド国民解放委員会」をルブリンに作らせた。戦後のポーランドを誰が治めるのかが、すでに争われていた。

7月末、赤軍の先頭の戦車部隊がヴィスワ川の東岸、ワルシャワの対岸のプラガ地区の近くまで達した。モスクワの放送はワルシャワの市民に、立ち上がって戦えと呼びかけた。国内軍のブル=コモロフスキ司令官は、蜂起を決断した。首都をポーランド人自身の力で解放し、亡命政府の代表としてソ連軍を迎えれば、戦後の独立を守れる、という読みだった。
蜂起に加わったのは数万人で、その中には少年少女も大勢いた。しかし武器は乏しく、銃を持てたのは一部の者だけだった。それでも最初の数日で、蜂起軍は市の中心部の多くを押さえた。だがドイツは、すぐに激しい反撃に出た。ヒトラーとSSの長官ヒムラーは、ワルシャワを徹底的に破壊し、住民を見せしめにするよう命じた。8月5日から、西部のヴォラ地区に入ったSSの部隊や、犯罪者を集めたディルレヴァンガー部隊などが、男も女も子どもも区別なく住民を殺していった。わずか数日のうちに、数万人が殺されたとされる。

蜂起した人びとが待ち望んだソ連軍は、川の向こうで止まったままだった。前線の赤軍は長い進撃で疲れ、補給も尽きかけており、ドイツ軍の反撃も受けていた、とソ連は説明した。だが、スターリンは国内軍が潰されるのを待っていたのだと、多くのポーランド人は考えてきた。少なくとも、彼が蜂起を助けようとしなかったことは確かだ。スターリンは蜂起を、権力を求める一握りの冒険主義者の企てと非難した。チャーチルとフランクリン・ローズヴェルトが、ワルシャワに物資を落とした飛行機がソ連の飛行場で給油できるよう求めても、8月のあいだは拒み続けた。
連合国の飛行機は、遠くイタリアの基地から飛んだ。ポーランド人、イギリス人、南アフリカ人の搭乗員が、往復で数千キロの夜間飛行を重ね、多くが撃ち落とされた。投下した物資の多くは、ドイツ軍の手に落ちた。9月18日には、ようやくソ連の飛行場を使う許しを得たアメリカの爆撃機100機あまりが、昼間に大量の物資を落としたが、そのころには蜂起軍の支配地域は小さくなっており、大半はドイツ側に落ちた。

ワルシャワの人びとは地下でも戦った。下水道が地区と地区をつなぐ唯一の通路になり、伝令や負傷者が、汚水の中を何時間もかけて通り抜けた。9月初めに旧市街が落ちたとき、数千人の兵士がこの下水道を通って中心部へ逃れた。9月中旬には赤軍がプラガ地区を取り、ソ連側について戦うポーランド人の部隊がヴィスワを渡って援護を試みたが、十分な支援がないまま大きな損害を出して押し戻された。
10月2日、国内軍は降伏した。ドイツは、国内軍の兵士を正規の戦闘員、つまり捕虜として扱うことを約束した。戦死した国内軍の兵士は1万数千人、殺された市民は15万から20万人と推計されている。生き残った市民はみな街から追い出され、その多くは収容所や強制労働に送られた。

蜂起が終わっても、破壊は終わらなかった。ヒトラーの命令で、ドイツの工兵部隊は空っぽになった街を、通りごと、建物ごとに爆破し、焼き払っていった。図書館も、王宮も、古い教会も例外ではなかった。1945年1月17日、ソ連軍とソ連側のポーランド軍がようやく川を渡ってワルシャワに入ったとき、川の西側の市街は8割以上が瓦礫になっていた。
戦後のポーランドは、ソ連の影響下で共産党が治める国になった。1945年には、地下国家の指導者16人がモスクワに呼ばれて逮捕され、裁判にかけられた。国内軍の元兵士の多くは迫害され、蜂起は長いあいだ、無責任な指導者が引き起こした悲劇として語られた。蜂起の勇敢さを公然とたたえることができるようになったのは、連帯の結成を経て、共産党の支配が揺らいだ1980年代の終わりである。1989年8月、市の中心に蜂起の記念碑が除幕された。

蜂起を起こすべきだったのかどうかは、今もポーランドで論じられている。勝ち目のない戦いに首都を賭け、20万の命と街そのものを失った、という批判がある。一方で、立ち上がらなければポーランドは誇りも独立の意志も示せなかった、という声も強い。毎年8月1日の午後5時、ワルシャワではサイレンが鳴り響き、道行く人も車も1分間止まって、あの日に立ち上がった人びとを悼む。瓦礫から旧市街を元の姿どおりに建て直したこの街は、今もその時刻を忘れていない。