できごと

無制限潜水艦作戦

Unrestricted submarine warfare
AD1917年2月1日
重要度 5
無制限潜水艦作戦に関わる図版:Editorial cartoon by T E. Powers pertaining to incident with RMS Lusitania prior to its sinking, 1915
Editorial cartoon by T E. Powers pertaining to incident with RMS Lusitania prior to its sinking, 1915 Wikimedia Commons T. E. Powers · Public domain

概要

封鎖で飢えたドイツが、警告なしに商船を沈めると宣言した。「イギリスを5か月で屈服させる。アメリカが参戦する前に」。4月、アメリカが参戦した。船団方式で沈没は減り、5か月後にイギリスは屈服せず、ドイツは1年半後に降伏した。

場所

ベルリン
52.52°N 13.40°E · ドイツ

本文

第一次世界大戦が始まると、海軍で勝るイギリスは、北海の出口を押さえてドイツへの海上の輸送を断った。食料や原料が中立国経由でドイツへ入ることも、できる限り止めた。これに対抗するドイツの武器が、潜水艦、Uボートだった。水面下から近づき、魚雷で船を沈める。だが潜水艦は小さく、もろい。国際法に従って商船を止め、乗員を救命ボートに移してから沈めようとすれば、浮上している間に反撃される。警告なしに沈めることは、中立国、とりわけアメリカの怒りを買う危険があった。

1915年2月、ドイツはイギリス周辺の海を戦争区域とし、そこにいる敵の商船は警告なしに沈めると宣言した。5月7日、アイルランド沖で、イギリスの大型客船ルシタニア号がUボートの魚雷を受けて沈んだ。死者は1198人、そのうち128人がアメリカ人だった(ルシタニア号の撃沈)。船は小銃の弾薬なども積んでいたが、アメリカの世論は激しく反発した。ドイツは客船への攻撃を控えると約束した。

無制限潜水艦作戦を実施したドイツ海軍の潜水艦Uボート
無制限潜水艦作戦を実施したドイツ海軍の潜水艦UボートWikimedia Commons The Library of Congress · Public domain

1916年3月、英仏海峡でフランスの客船サセックス号が魚雷を受け、アメリカ人も負傷した。アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンが国交断絶をちらつかせると、ドイツは5月、警告なしに商船を沈めないと約束した。サセックスの誓約と呼ばれる。その月の終わりには、両国の艦隊が正面からぶつかるユトランド沖海戦が起きたが、イギリスの海上封鎖は揺るがなかった。

1916年から翌年にかけての冬、ドイツはジャガイモの凶作に見舞われ、人々は飼料用のカブで飢えをしのいだ。「カブラの冬」と呼ばれる。戦後のドイツは、封鎖による食料不足で数十万の民間人が死んだと主張した。西部戦線ではヴェルダンとソンムで膨大な損害を出し、陸軍を率いるヒンデンブルクとルーデンドルフは、戦争を決着させる手段を求めていた。

1915年1月30日、潜水艦U-21によるリンダ・ブランチ号撃沈を描いたドイツの絵。巡洋艦規則に従い乗員を退避させている
1915年1月30日、潜水艦U-21によるリンダ・ブランチ号撃沈を描いたドイツの絵。巡洋艦規則に従い乗員を退避させているWikimedia Commons Willy Stöwer · Public domain

海軍の軍令部長ホルツェンドルフは、1916年12月、一つの計算を示した。Uボートで毎月60万トンの船を沈め続ければ、食料を輸入に頼るイギリスは5か月で講和を求めざるをえない。アメリカが参戦しても、その兵がヨーロッパに来る前に戦争は終わる、というのである。宰相ベートマン・ホルヴェークは、アメリカを敵に回すことを恐れて反対したが、軍の意見が通った。1917年1月9日、東部のプレス城で開かれた会議で、皇帝ヴィルヘルム2世は無制限潜水艦作戦の再開を決めた。

2月1日、作戦が始まった。指定された海域では、敵国の船も中立国の船も、警告なしに沈められる。アメリカは2月3日、ドイツとの国交を断った。それでもウィルソンは、なお参戦をためらっていた。

ルシタニア号の撃沈を描いたオスカー・セザールの風刺画。警告なしの客船撃沈は中立国の反発を招いた
ルシタニア号の撃沈を描いたオスカー・セザールの風刺画。警告なしの客船撃沈は中立国の反発を招いたWikimedia Commons en:Oscar Cesare · Public domain

決定的だったのは、一通の電報だった。ドイツ外相ツィンメルマンは1月、メキシコ駐在の公使に暗号電報を送り、アメリカが参戦した場合にはメキシコに同盟を持ちかけ、勝てばテキサス、ニューメキシコ、アリゾナを取り戻させると約束せよ、と指示していた。イギリス海軍の暗号解読部門がこれを解読し、2月24日にアメリカに渡した。3月1日に新聞が報じると、アメリカの世論は沸き立った。ツィンメルマン自身が、電報は本物だと認めた(ツィンメルマン電報)。

3月には、アメリカの商船が相次いで沈められた。4月2日、ウィルソンは議会で、世界を民主主義にとって安全な場所にしなければならない、と述べて開戦を求め、4月6日、アメリカはドイツに宣戦した。同じ3月、ロシアでは二月革命で皇帝が退位していた。専制のロシアと手を組む気まずさが消えたことも、民主主義のための戦争という言い方を可能にした。

作戦は、初めは計算どおりに進むかに見えた。1917年4月、Uボートが沈めた船は合わせて80万トンを超え、戦争中で最も多かった。イギリスでは、小麦の蓄えが数週間分しかないと危ぶまれた。海軍の首脳さえ、このままでは戦争を続けられないと考えた。

流れを変えたのは、船団方式だった。商船を数十隻ずつまとめ、駆逐艦などの護衛をつけて走らせる。海軍は、足の遅い船に合わせることになる、大きな的になる、と長く嫌っていたが、首相ロイド・ジョージらの圧力もあって、5月から試され、やがて大西洋の主な航路に広がった。広い海の上では、一隻ずつでも数十隻でも見つけられる確率はあまり変わらない。船団を組むと、潜水艦は獲物を見つけにくくなり、見つけても護衛艦の反撃を受けた。船団で走った船の損失は大きく減った。

5か月で屈服するはずのイギリスは、屈服しなかった。戦争を通じてドイツは170隻以上のUボートを失った。そして1918年には、アメリカの兵が毎月何十万人という規模でフランスに着いた。春の大攻勢に失敗したドイツは、秋には追い詰められた。11月、出撃を命じられた艦隊の水兵がキール軍港の水兵反乱を起こし、それが革命となって皇帝は退位した。ドイツは休戦を受け入れた。

アメリカの兵は間に合わないという計算は、外れた。無制限潜水艦作戦の決定は、アメリカを戦争に引き入れ、ドイツの敗北を早めた判断として振り返られる。その代償はヴェルサイユ条約での厳しい条件として返ってきた。

ヴェルサイユ条約に関わる図版:Treaty of Versailles, English version
ヴェルサイユ条約Wikimedia Commons David Lloyd George, Woodrow Wilson and Georges Clemenceau · Public domain

20年あまり後、ドイツは再びUボートで同じことを試みた。第二次世界大戦では、開戦からほどなく、事実上の無制限の攻撃が始まった(大西洋の戦い)。今度もイギリスは船団と護衛で耐え、1941年にはアメリカが参戦した。同じ海で、同じ計算が、二度試されたことになる。

同じ時代のできごと

ヴィクトリア女王即位60年AD1897年指紋による身元確認AD1897年活動写真の上映AD1897年2月15日アスピリンAD1897年蚊の胃の中にAD1897年8月20日合成インディゴAD1897年イエロー・ジャーナリズムAD1898年2月15日オムドゥルマンの戦いAD1898年9月2日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1917年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →