できごと

ポツダム会談

Potsdam Conference
AD1945年7月17日
重要度 5
ポツダム会談に関わる図版:Attlee, Truman and Stalin at Potsdam
Attlee, Truman and Stalin at Potsdam Wikimedia Commons Unknown official photographer · Public domain

概要

ドイツ降伏の2か月後、ベルリンの郊外。トルーマンは会談の途中で原爆実験の成功を聞き、スターリンに「新しい強力な兵器」とだけ言った。スターリンは知っていた。26日、日本に降伏を求める宣言。日本は「黙殺」し、8月6日。チャーチルは会談中に選挙で負けて帰った。

場所

ポツダム
52.40°N 13.07°E · ドイツ

関わった人(3)

ハリー・トルーマンAD1884年5月8日–AD1972年12月26日 · 米ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · ソチャーチルAD1874年11月30日–AD1965年1月24日 · 途中で交代

本文

1945年7月17日から8月2日まで、ベルリンの南西の町ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿に、アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が集まった。ドイツが5月に降伏してから2か月余り。ヨーロッパの戦争は終わったが、アジアでは日本との戦争が続いていた。17日間の会談は、敗れたドイツをどう扱うかを決め、日本に降伏を迫る宣言を生み、そして、その裏で始まったばかりの核の時代の空気をまとっていた。

宮殿は、ドイツ最後の皇太子ヴィルヘルムのためにイギリスの田舎屋敷風に建てられた館で、戦災を免れていた。顔ぶれは、半年前のヤルタ会談とは変わっていた。アメリカのフランクリン・ローズヴェルトは4月に死に、副大統領から昇格したハリー・トルーマンは、大統領になってまだ3か月だった。ソ連のヨシフ・スターリンは予定より1日遅れて到着した。イギリスのチャーチルは、7月5日に行われた総選挙の開票を待ちながら会談に臨んでいた。開票のために25日にいったん帰国したチャーチルは、労働党の大勝を知り、そのまま首相を退いた。28日からは、新しい首相となった労働党のアトリーがその席に座った。

ヤルタ会談に関わる図版:Yalta Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) (B&W)
ヤルタ会談Wikimedia Commons US government photographer · Public domain

ドイツについては、米英仏ソの4か国が分割して占領し、ベルリンも同じように4つに分けることが確かめられた。占領の方針として、ナチの影響を取り除くこと、軍備を解くこと、民主的な制度を作ること、巨大な企業連合を解体して経済の集中を崩すことが掲げられた。戦争犯罪人を裁くことも確認され、これは秋からのニュルンベルク裁判につながる。最も揉めたのは賠償だった。ドイツに最も大きな被害を受けたソ連は多額の賠償を求めたが、ドイツ経済を根こそぎにすれば、占領する側が住民を養わねばならなくなるとアメリカは渋った。結局、各国は自分の占領地区から賠償を取り、ソ連はさらに西側の地区の工業設備の一部を受け取ることで折り合った。この地区ごとの扱いが、のちにドイツが東西に分かれていく下地にもなった。

ポーランドの国境も大きく動いた。ソ連はポーランドの東部を自国に組み込み、その埋め合わせとして、ポーランドの西の境をドイツ側へ大きく押し出して、オーデル川とナイセ川の線まで広げた。会談はこれを講和条約までの「暫定」の措置としたが、事実上の国境になった。この線の東や、チェコスロヴァキア、ハンガリーに住んでいたドイツ人を移すことも認められ、宣言は「秩序ある人道的な方法で」と付け加えた。しかし実際には、1200万から1400万とされるドイツ系の人びとが住む家を追われ、その途中で数十万から200万人が命を落としたと推計されている。

会談の前日の7月16日、アメリカのニューメキシコ州の砂漠で、マンハッタン計画が作り上げた原子爆弾の最初の爆発実験が行われた(トリニティ実験)。成功の第一報はすぐにポツダムに届き、21日には威力を伝える詳しい報告がトルーマンの手に渡った。チャーチルは、報告を読んだあとのトルーマンが会議で見違えるほど強気になったと語ったと伝えられる。7月24日、会議が終わったあと、トルーマンはさりげなくスターリンに近づき、アメリカは並外れた破壊力を持つ新しい兵器を手にした、とだけ告げた。トルーマンの回想によれば、スターリンは特に関心を示さず、それは良かった、日本に対してうまく使ってほしい、と答えたという。

マンハッタン計画に関わる図版:Time, 3-22 p.m, December 2, 1942. Place, Racquets Court under West Stands of Stagg Field, University of Chicago.... - NA
マンハッタン計画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

スターリンは驚かなかった。マンハッタン計画には、物理学者フックスらソ連の諜報網が入り込んでおり、彼は計画の存在をとうに知っていた。ソ連の元帥ジューコフの回想によれば、その夜スターリンは、自国の原爆開発を急がせるよう指示したという。

7月26日、アメリカ、イギリス、中華民国の名で、日本に降伏を求める「ポツダム宣言」が発表された。ソ連は日本とまだ中立条約を結んでいたため署名しなかった。宣言は、軍国主義の勢力を取り除くこと、日本の主権を本州・北海道・九州・四国と連合国が決める小さな島々に限ること、戦争犯罪人を処罰することなどを条件に挙げ、日本の政府に「全日本国軍隊の無条件降伏」を宣言するよう求めた。そうしなければ、待っているのは「迅速かつ完全なる壊滅」だけだ、と結んだ。天皇の地位をどうするかには触れていなかった。原案には天皇制を残す余地を示す一文があったが、最終的に削られた。

ポツダムに集まった3ヶ国首脳。左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連首相。(1945年7月25日)
ポツダムに集まった3ヶ国首脳。左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連首相。(1945年7月25日)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

7月28日、鈴木貫太郎首相は記者会見で、宣言を「黙殺」すると述べた。政府としては、ソ連を仲介にした和平の工作に望みをかけており、すぐには態度を決めないという含みだったとされる。だがこの言葉は連合国の側で、宣言を無視する、拒否する、という意味で受け取られた。訳され方が運命を分けたという見方もあるが、当時の日本政府が宣言を受け入れる用意をしていなかったことも確かで、評価は分かれる。

8月6日、広島に原爆が落とされた(広島・長崎への原爆投下)。8日、ソ連は中立条約を破って日本に宣戦し、翌日から満洲へなだれ込んだ。これはヤルタ会談でスターリンが約束していた、ドイツ降伏から3か月以内の対日参戦だった。9日には長崎に2発目の原爆が落とされた。日本は14日にポツダム宣言の受け入れを連合国に伝え、15日、国民は天皇の放送でそれを知った(玉音放送)。

広島・長崎への原爆投下に関わる図版:Atomic bombing of Japan
広島・長崎への原爆投下Wikimedia Commons George R. Caron / Charles Levy · Public domain

原爆の投下が何のためだったのかについては、今も議論が続いている。本土への上陸作戦で予想された大きな犠牲を避けるためだったとする見方と、ソ連が参戦して戦後のアジアで発言力を得る前に日本を降伏させるため、ソ連に力を見せつけるためだったとする見方がある。両方の思惑が重なっていたと考える研究者も多い。

ポツダムは、第二次世界大戦の連合国の首脳がそろった最後の会談になった。ドイツの分け方、ポーランドの国境、ソ連の原爆開発の加速と、ここで決まったこと、ここで始まったことの多くが、そのまま物語「冷戦」の舞台装置になっていく。ツェツィーリエンホーフ宮殿は今は博物館になっており、三首脳が囲んだ大きな円卓が、当時の部屋にそのまま残されている。

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