できごと

ハイレ・セラシエの国際連盟演説

Haile Selassie addresses the League of Nations
AD1936年6月30日
重要度 4
大英帝国White Russiaデンマークフランス領西アフリカアルジェリアスーダンフランス領赤道アフリカポルトガル帝国イランLibya (IT)Emirate of Bin Shal'anエジプトスウェーデンノルウェーフランスフィンランドイタリアドイツMesopotamia (GB)スペインポーランドグレートブリテン及びアイルランド連合王国モロッコHejazルーマニアSyria (France)Yugoslaviaオスマン帝国アイスランドCzechoslovakiaアルメニアギリシャチュニジアRio De OroアゼルバイジャンブルガリアハンガリーHailオーストリアラトビアSpanish SaharaリトアニアジョージアエストニアAD1936年6月30日ジュネーヴ
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概要

侵略された国の元首が直接訴えたが、制裁は解かれた。「今日は我々、明日はあなたたちだ」という一節が残る。

場所

ジュネーヴ
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)

関わった人(1)

ハイレ・セラシエ1世AD1892年7月23日–AD1975年8月27日 · 当人

本文

エチオピアは、アフリカで植民地にならなかった数少ない国の一つだった。1896年、皇帝メネリク2世の軍はアドワの戦いでイタリア軍を破り、独立を守った。1923年には国際連盟に加盟し、欧米の列強と同じ主権国家として認められた。1930年に皇帝となったハイレ・セラシエ1世は、憲法を定め、学校や道路を整え、国の近代化を進めていた。

イタリアにとって、アドワの敗北は消えない屈辱だった。ファシスト党のベニート・ムッソリーニは、古代ローマのような帝国を築くと唱え、隣のエリトリアとソマリランドに挟まれたエチオピアに目をつけた。1934年12月、国境の井戸のあるワルワルで両国の兵が衝突すると、イタリアはこれを口実に軍備を進め、1935年10月、宣戦布告もないままエチオピアに攻め込んだ(イタリアのエチオピア侵攻)。

ハイレ・セラシエ1世の正装姿
ハイレ・セラシエ1世の正装姿Wikimedia Commons unknown; according to [1] and [2] an official portrait of which b/w copies were distributed by the Ethiopian government · Public domain

国際連盟は、イタリアを侵略国と認め、加盟国としては初めての経済制裁を決めた。武器の輸出や、イタリアへの融資、イタリアからの輸入が禁じられた。だが、戦争の継続に欠かせない石油は、制裁の対象から外された。イタリアの軍隊と物資が通るスエズ運河も、閉じられなかった。イギリスとフランスは、ドイツに対抗するためにイタリアを敵に回したくなかったのである。1935年12月には、両国の外相がエチオピアの領土の大半をイタリアに譲る案をひそかにまとめていたことが新聞に漏れ、大きな非難を浴びた。

イタリア軍は飛行機と戦車を持ち、エチオピア軍の多くは古い銃と槍で戦った。イタリアは、1925年の条約で禁じられていた毒ガスを使った。飛行機から、兵士だけでなく村や家畜、川や湖にまで、皮膚を焼き肺を冒すイペリットの雨を降らせた。1936年3月、皇帝が自ら率いた軍は北部のマイチャウで敗れた。5月2日、皇帝は首都アディスアベバを離れ、フランス領ジブチからイギリスの軍艦でパレスチナへ渡り、イギリスへ亡命した。5月5日にイタリア軍が首都に入り、9日にムッソリーニは、イタリア国王がエチオピア皇帝を兼ねると宣言した。

1930年のタイムの表紙
1930年のタイムの表紙Wikimedia Commons Cover credit: International · Public domain

1936年6月30日、ハイレ・セラシエはジュネーヴの国際連盟の総会の演壇に立った。侵略された国の元首が、自ら連盟に訴えるのは初めてのことだった。皇帝が演壇に向かうと、傍聴席にいたイタリアの記者たちが口笛を吹き、罵声を浴びせて妨害した。議長は彼らを議場から退出させた。皇帝は、宮廷の言葉であるアムハラ語で語りはじめた。

演説の中で、皇帝は毒ガスの被害を具体的に語った。飛行機に取り付けた噴霧器が、広い地域に細かい死の雨を降らせ、それに触れた者はみな苦しみながら死んでいった、と。そして連盟の加盟国に問いかけた。小さな国が大きな国に侵略されたとき、集団での安全の保障という約束は守られるのか。国際的な約束の価値はどうなるのか。最後に、自分の国の人々に何と答えればよいのかと問い、神と歴史はあなたがたの判断を記憶するだろう、と結んだ。演壇を降りるとき、「今日は私たちだ。明日はあなたたちの番だ」と語ったとも伝えられるが、この一節は演説の公式の文面には見えない。

伝統的な戦士の服を着たハイレ・セラシエ1世
伝統的な戦士の服を着たハイレ・セラシエ1世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

連盟の答えは、すぐに出た。7月4日、総会はイタリアへの制裁を解除することを決め、制裁は7月半ばに終わった。演説から3週間足らずのことである。加盟国の多くは、やがてイタリアのエチオピア併合を事実上認めていった。

連盟が侵略を止められないことは、世界中に知れ渡った。演説の半月余り後にスペイン内戦が始まり、ドイツとイタリアは反乱軍を公然と支援した。1938年にはドイツがオーストリア併合を果たし、同じ年のミュンヘン会談でチェコスロバキアの一部を手に入れた。1939年、第二次世界大戦が始まる。皇帝の警告は、そのとおりになった。

昭和天皇とハイレ・セラシエ1世
昭和天皇とハイレ・セラシエ1世Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

エチオピアでは、占領に抵抗する戦いが続いた。1937年2月、総督グラツィアーニの暗殺未遂事件が起きると、イタリア側はその報復として首都で数千人とも数万人ともいわれる住民を殺した。1941年、イギリス軍とエチオピアの抵抗勢力がイタリア軍を破り、ハイレ・セラシエは5月5日、首都に戻った。首都を追われてから、ちょうど5年後の同じ日だった。

戦後、皇帝はアフリカの独立国の長老として重んじられ、1963年にはアディスアベバでアフリカ統一機構の設立の設立を主導した。だが国内では専制を続け、1973年の飢饉への無策が批判を浴びて、1974年、軍の革命で退位させられた。翌年、幽閉の中で死んだ。軍事政権が殺害したとみられている。ジャマイカで生まれたラスタファリ運動の人々は、彼を神の化身として崇めている。国際連盟の演壇での訴えは、国際機関が大国の侵略を前にして何ができるのかという問いとして、いまも繰り返し引かれている。

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