概要
1906年2月10日、イギリスのポーツマスの造船所で、新しい戦艦ドレッドノートが国王エドワード7世の手で進水した。それまでの戦艦は、大きさの違う砲をいくつも積んでいたが、ドレッドノートは同じ大口径の砲を10門そろえ、蒸気タービンで当時としては速い21ノットを出した。起工からおよそ1年で就役している。この一隻で、世界のすべての戦艦が一度に古くなった。ドイツはすぐに同じ型の戦艦を造り始め、英独の建艦の競争は第一次世界大戦へとつながる。日本語の「弩級」「超弩級」は、この艦の名の頭の音から来ている。
場所
50.82°N -1.09°E · イギリス・ハンプシャー
本文
19世紀の末から20世紀のはじめ、戦艦は国の力の象徴だった。当時の戦艦は、大口径の主砲を4門ほどと、それより小さい砲をたくさん積んでいた。だが砲の性能が上がり、遠くから撃ち合うようになると、大きさの違う砲が混じっていては、水柱を見て狙いを直すのが難しくなった。同じ大きさの大口径の砲だけをそろえれば、遠くの敵にもまとめて正確に撃てる。1905年の日本海海戦も、そうした考えを後押しした。
イギリス海軍の第一海軍卿ジョン・フィッシャーは、この考えを形にした戦艦の建造を急がせた。1905年10月に起工したドレッドノートは、驚くほどの速さで造られ、1906年2月10日に進水し、同じ年の12月に就役した。12インチの主砲を10門そろえ、そのうち8門を片側に向けられた。軍艦として初めて蒸気タービンを主機に使い、それまでの戦艦より速い21ノットを出した。
ドレッドノートが就役すると、世界のすべての戦艦は「前ド級艦」として一度に時代遅れになった。イギリス自身が持っていた多くの戦艦も例外ではなかった。それは、イギリスの海の上での優位がいったんゼロに戻ることでもあった。ドイツの海軍を率いるティルピッツは、すぐに同じ型の戦艦の建造に乗り出し、英独の建艦の競争は激しさを増した。イギリスでは「8隻よこせ、待てないぞ」という言葉が流行した。この競争は、両国の対立を深め、第一次世界大戦の背景の一つになった。
日本語では、ドレッドノートの頭の音をとって、同じ型の戦艦を「弩級艦」、それを上回る戦艦を「超弩級艦」と呼んだ。並外れて大きいものを「超ド級」と言うのは、ここから来ている。
当のドレッドノートは、1915年、北海でドイツの潜水艦に体当たりして沈めた。潜水艦を沈めた唯一の戦艦とされる。だが翌年のユトランド沖海戦には、修理中で加わらなかった。より大きく強い戦艦が次々に現れるなか、ドレッドノートは1921年に売られて解体された。艦の名だけが、一つの時代を表す言葉として残った。