カティンの森

概要
ソ連がポーランドの将校、警官、知識人2万2000人を後頭部から撃った。1943年にドイツが森で見つけて発表し、ソ連は「ドイツがやった」と言い続けた。連合国は黙った。1990年、ゴルバチョフが認めた。2010年、追悼に向かうポーランド大統領機がスモレンスクで落ちた。
場所
54.77°N 31.79°E · ロシア・スモレンスク州
関わった人(1)
ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · 命じた本文
1939年8月、ナチ・ドイツとソ連は不可侵条約を結び、その秘密の取り決めでポーランドを分け合うことを決めていた(独ソ不可侵条約)。9月1日にドイツが西から攻め込み、9月17日、ソ連が東から攻め込んだ。ポーランドはふたたび地図から消えた(ポーランド分割)。ソ連の捕虜になったポーランドの兵は20万人を超えた。兵卒の多くはやがて帰されたが、将校は別にされた。
ソ連の秘密警察NKVDは、将校、警官、国境警備兵、憲兵、それに地主や官吏、聖職者を、コゼリスク、スタロベリスク、オスタシコフの三つの収容所に集めた。ポーランドの将校の多くは予備役で、平時は医者、弁護士、技師、教師、大学教員だった。この人々は、国の知識層そのものだった。NKVDは彼らを尋問し、ソ連の体制に協力する見込みがあるかを調べた。

1940年3月5日、NKVDの長官ベリヤは、ヨシフ・スターリンに覚書を出した。捕虜たちはソヴィエト権力の頑固で改悛の見込みの無い敵であり、裁判にかけずに最高刑、すなわち銃殺に処すべきだ、という内容だった。スターリンをはじめ政治局の幹部たちが署名し、これが命令になった。
4月の初めから5月にかけて、捕虜たちは「家へ帰す」と言われて、小さな組に分けられて収容所から運び出された。コゼリスクの4400人ほどは、ロシア西部のスモレンスクの近くのカティンの森へ運ばれ、穴の縁で、後頭部を拳銃で撃たれた。手を後ろで縛られ、頭に外套をかぶせられた者もいた。使われた拳銃の弾にはドイツ製のものが多かった。スタロベリスクの3800人ほどはハリコフで、オスタシコフの6300人ほどはカリーニン(いまのトヴェリ)で、NKVDの建物の地下室で撃たれ、近くの森に埋められた。ほかに、ソ連が占領したポーランド東部の監獄にいた7000人あまりも殺された。合わせて2万2000人ほどになる。
1941年6月、ドイツがソ連に攻め込むと(独ソ戦の始まり)、ソ連はロンドンのポーランド亡命政府と手を結び、ソ連にいたポーランド人で軍を作ることになった。だが、集まってくるはずの将校たちが、何千人も見つからない。1941年12月、亡命政府の首相シコルスキがモスクワでスターリンに行方を尋ねると、スターリンは、満洲へでも逃げたのだろう、と答えたという。
1943年4月13日、ベルリンのラジオが、ドイツ軍がカティンの森で数千人のポーランド将校の埋葬地を見つけたと発表した。遺体は1940年の春に殺されたことを示していた。宣伝に利用する狙いは明らかだったが、亡命政府は国際赤十字に調査を求めた。ソ連はこれをドイツの挑発だと非難し、1941年にドイツ軍が殺したのだと主張して、4月25日、亡命政府との関係を断った。

イギリスとアメリカは、真相に気づいていた。チャーチルはシコルスキに、ドイツの言い分はおそらく本当だろう、ボリシェヴィキはとても残酷になりうる、と語ったと記録されている。だがドイツと戦うにはソ連が欠かせなかった。イギリス政府は事実を疑わせる報告を表に出さず、アメリカの大統領ローズヴェルトも、ソ連の犯行を示す報告を退けた。1944年、ソ連が作った調査委員会は、ドイツの犯行だと結論した。1946年のニュルンベルク裁判では、ソ連がカティンをドイツの罪として訴えに加えたが、証拠が通らず、判決では触れられなかった。
戦後、ソ連の影響の下に置かれたポーランドでは、カティンの名を口にすることは禁じられた。犠牲者の家族は、夫や父が死んだ日付さえ書けなかった。墓碑に1940年と刻めば、ソ連の犯行を示すことになるからである。1980年代、連帯(連帯の結成)の運動が広がると、カティンの真相を求める声が公然と上がるようになった。

1990年4月13日、ソ連の大統領ゴルバチョフは、NKVDの犯行だったことを初めて公式に認め、関係する文書の一部をポーランドに渡した。1992年には、ロシアの大統領エリツィンが、ベリヤの覚書とスターリンらの署名を含む秘密文書をポーランドに渡した。
2010年4月7日、ロシアの首相プーチンとポーランドの首相トゥスクが、カティンでそろって追悼の式に出た。3日後の4月10日、別の追悼の式に向かうポーランドの大統領カチンスキの乗った飛行機が、スモレンスクの近くで墜落し、大統領夫妻と政府や軍の要人ら96人全員が死んだ。事故の原因をめぐる争いは、ポーランドの国内とロシアとの関係に深い傷を残した。その年の11月、ロシアの下院は、カティンの虐殺がスターリンとその側近の命令によるものだったと認める声明を出した。だがその後、ロシアの捜査の資料の多くは秘密のままとされ、ドイツの犯行だとする言い分も、ロシアの一部では今も繰り返されている。
ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダは、2007年に映画『カティンの森』を撮った。彼の父も、ハリコフで殺された将校の一人だった。殺された人々の多くは、名前が分かっている。