できごと

キール軍港の水兵反乱

Kiel mutiny
AD1918年11月3日
重要度 4
大英帝国ロシア帝国デンマークアルジェリアドイツ帝国ポルトガル帝国Arabia (Nejd)ペルシアリビアオスマン帝国エジプトオーストリア=ハンガリー帝国スウェーデンノルウェーフィンランドフランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国モロッコKingfom of ItalyルーマニアアイスランドブルガリアチュニジアセルビアギリシャアゼルバイジャンジョージアAD1918年11月3日キール
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概要

海軍が「名誉のために」艦隊を最後に出撃させようとし、水兵が火を落とした。キールで4万人が労兵評議会を作った。1週間でドイツ中の都市に広がり、9日にベルリンで共和国が宣言され、皇帝はオランダへ。11日、休戦。革命が戦争を終わらせた。

場所

キール
54.32°N 10.14°E · ドイツ

本文

1918年の秋、ドイツの敗北はもう動かせなかった。春の大攻勢は失敗し、夏からは連合国の反撃で前線がじりじりと下がっていた。9月の末、軍を率いるルーデンドルフは、もう持ちこたえられない、すぐに休戦を求めよと皇帝に迫った。10月、バーデン公マクシミリアンを首相とする新しい政府が作られ、社会民主党も加わって、アメリカのウィルソン大統領と休戦の交渉に入った。

ところが海軍の司令部は、別のことを考えていた。開戦から4年、ドイツの大洋艦隊は1916年のユトランド沖海戦を除けばほとんど港にこもったままだった。シェーア提督やヒッパー提督たちは、艦隊が一度も決戦をせずに戦争を終えれば、海軍の名誉は地に落ち、戦後に艦隊が生き残る道も失われると考えた。10月24日、政府に知らせないまま、全艦隊でイギリス艦隊に最後の決戦を挑む作戦の命令が出された。

ラインハルト・シェーア提督。キール軍港反乱の引き金となった英海軍への攻撃を命じた
ラインハルト・シェーア提督。キール軍港反乱の引き金となった英海軍への攻撃を命じたWikimedia Commons The Library of Congress · Public domain

水兵たちは、それを「死の出撃」と受け取った。休戦の話が進んでいるのに、なぜ今になって死ななければならないのか。10月29日の夜から30日にかけて、ヴィルヘルムスハーフェンの沖に集まった戦艦で、水兵たちは命令に従わず、ボイラーの火を落とした。出撃は取りやめになったが、1000人ほどの水兵が捕えられた。反乱を起こした艦隊の一部は、母港のキールに戻された。

キールに戻った水兵たちは、捕まった仲間の釈放を求めて動き出した。11月1日と2日には労働組合の会館や郊外の練兵場に集まり、港の労働者たちも加わった。11月3日の日曜日、数千人のデモが町を進み、牢獄へ向かう途中で巡察隊の銃撃を受け、7人が死んだ。翌4日、水兵は武器を取って艦艇と兵営を押さえ、兵士評議会を作った。キールの水兵と兵士と労働者、4万人ほどが町を握った。政府は社会民主党の議員グスタフ・ノスケを送って事態を収めようとしたが、ノスケは水兵に迎えられて評議会の議長となり、キールの総督の役に就いた。

キール軍港の水兵反乱指導者の一人カール・アルテルト(1917年)
キール軍港の水兵反乱指導者の一人カール・アルテルト(1917年)Wikimedia Commons Unknown, we did not succeed to identify him/her. · Public domain

反乱は鉄道に乗って広がった。11月5日にはリューベック、6日にはハンブルクとブレーメン、7日にはミュンヘンで革命が起き、社会主義者のクルト・アイスナーがバイエルンの共和国を宣言して、王は逃げ出した。各地の町で労働者と兵士の評議会が役所を押さえ、古い領邦の君主たちは、ほとんど抵抗もなく次々に位を降りた。

11月9日、革命はベルリンに達した。マクシミリアン公は、皇帝の返事を待たずに、ヴィルヘルム2世が退位したと発表し、首相の座を社会民主党のエーベルトに譲った。その日の午後、社会民主党のシャイデマンは国会の建物の窓から共和国を宣言した。2時間ほど後には、左派のリープクネヒトが王宮のバルコニーから社会主義の共和国を宣言した。ベルギーのスパの大本営にいた皇帝は、軍がもはや自分に従わないと告げられ、翌10日、オランダへ逃れた。11月11日、フランスのコンピエーニュの森で休戦協定が結ばれ、4年あまりの戦争が終わった。

キール軍港司令官ヴィルヘルム・ズーション提督
キール軍港司令官ヴィルヘルム・ズーション提督Wikimedia Commons anonymous · Public domain

革命が戦争を終わらせたのか、戦争に負けたから革命が起きたのか。ドイツの右派はのちに、軍は戦場で負けたのではなく、国内の革命に後ろから刺されたのだと言いふらした。1919年11月、議会の調査委員会でヒンデンブルクがこの「背後からの一突き」の話を口にし、休戦を結んだ政治家たちは「11月の犯罪者」と罵られた。実際には休戦を求めたのは軍の首脳自身だったが、この作り話はヴァイマル共和国をむしばみ、ナチ党の宣伝にも使われた。

革命の行方も、水兵たちの望んだ形にはならなかった。1919年1月、ベルリンでスパルタクス団などの左派が蜂起すると、国防の責任者となっていたノスケは義勇軍を使ってこれを押しつぶし、リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは捕えられて殺された。誰かが血に飢えた猟犬にならねばならない、というノスケの言葉が残っている。同じ年、ヴァイマル憲法が定められ、ドイツは共和国として歩み出した。

ヴァイマル憲法に関わる図版:Weimar Constitution
ヴァイマル憲法Wikimedia Commons en:User:JonRoma · Public domain

キールでは11月3日が、ドイツの民主主義の始まりの日として記念されている。水兵たちは、ただ無意味な死を拒んだだけだった。その拒否が1週間で皇帝を退け、4年続いた戦争の幕を引く引き金になった。

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