概要
第一次世界大戦のあと、アメリカ、イギリス、日本は、巨大な戦艦を次々に造る競争に入り、どの国の財政も悲鳴を上げていた。1921年、アメリカの呼びかけでワシントンに各国が集まり、会議の初日、アメリカの国務長官は、建造中の戦艦を含めて多くの艦を廃棄しようと、具体的な艦の名を挙げて提案した。翌年2月6日に結ばれた条約は、主力艦の保有量を、米英5・日本3・仏伊1.67の割合に抑え、10年間は新しい戦艦を造らないと決めた。軍備を数字で縛る、最初の大きな軍縮条約だった。日本の海軍の中では、この割合を受け入れるかどうかで深い亀裂が残った。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
本文
20世紀のはじめ、海の大国の力は、戦艦の数と大きさで測られた。1906年にイギリスが巨大な新型戦艦ドレッドノートを造ると、それまでの戦艦はいっぺんに古くなり、各国は新しい型の戦艦を競って造った。第一次世界大戦のあとも競争は止まらなかった。アメリカは大きな建艦計画を進め、日本は戦艦8隻と巡洋戦艦8隻をそろえる八八艦隊の計画に、国の予算の三分の一ほどを注いでいた。
1921年11月、アメリカのハーディング大統領の呼びかけで、ワシントンに9か国が集まった。開会の日、国務長官ヒューズは、各国の代表を前に、米英日の三国が建造中のものを含めて多くの主力艦を廃棄し、10年間は新しい主力艦を造らないという案を、廃棄する艦の名を挙げて示した。記者たちは、ヒューズは一回の演説で、世界の提督たちが何世紀もかけて沈めたより多くの軍艦を沈めたと書いた。
1922年2月6日に結ばれた海軍軍縮条約は、主力艦の保有量の上限を、アメリカとイギリスが各52万5千トン、日本が31万5千トン、フランスとイタリアが各17万5千トンとした。比率にすると5対5対3対1.67対1.67である。1隻の戦艦の大きさも3万5千トンまで、主砲も16インチまでと決められた。同じ会議では、太平洋の島々の現状を守る四か国条約が結ばれ、日英同盟は解消された。中国の領土と主権を尊重する九か国条約も結ばれた。
日本の海軍では、条約を受け入れるかどうかで激しい争いがあった。全権の加藤友三郎は、国の力でアメリカと際限なく建艦を競うことはできないとして、6割を受け入れた。一方で、7割が国を守る最低線だと考える軍人たちは強く反発し、海軍の中に、条約を重んじる人々と艦隊の増強を求める人々の亀裂が残った。
条約は、軍備の競争を国際的な取り決めで止められることを示し、1930年のロンドン海軍軍縮条約で補助艦にも枠が広げられた。だが1934年、日本は条約の廃棄を通告し、条約は1936年の末で効力を失った。軍縮の時代が終わったあと、日本は条約の枠を大きく超える戦艦大和の建造に取りかかった。