ヒトラー
概要
合法的に権力を得て独裁を敷き、戦争とホロコーストを引き起こした。民主制が自ら独裁を選びうることを示した例として残る。
関わったできごと(5)
ミュンヘン一揆AD1923年11月9日 · 首謀ナチスの政権掌握AD1933年1月30日 · 当人ミュンヘン会談AD1938年9月30日 · 要求第二次世界大戦1939年 · 枢軸側独ソ不可侵条約AD1939年8月23日 · 署名させた本文
1889年4月20日、オーストリアとドイツの国境の町ブラウナウ・アム・インに生まれた。父アロイスは税関の役人で、息子にも役人の道を望んだが、本人は画家を志した。父との衝突は激しく、学校の成績はふるわなかった。13歳で父を、18歳で母を亡くしている。

画家を志して、ウィーンの美術アカデミーに二度落ちた。建築の学校に進むには必要な学歴が無かった。ウィーンでは、絵葉書や風景画を描いて売り、やがて男性用の宿泊施設で暮らした。当時のウィーンには、反ユダヤ主義を掲げる市長や政治運動があり、その影響を受けたとされる。ただ、彼のユダヤ人への憎悪がいつ形になったのかについては、研究者の見方が分かれている。
1913年、オーストリアの兵役を逃れてミュンヘンへ移った。翌年第一次世界大戦が始まると、バイエルンの軍に志願し、西部戦線で伝令兵として4年を過ごした。一級鉄十字章を受けているが、階級は日本語で伍長と訳される最下級の下士官相当にとどまった。1918年10月、毒ガスで一時視力を失い、病院のベッドでドイツの降伏を知った。

敗戦を、内側から裏切られたためだとする主張(背後の一突き)を掲げた。ドイツ軍は戦場では負けていなかったのに、国内の社会主義者やユダヤ人が革命を起こして背後から刺した、という作り話である。ヴェルサイユ条約の重い賠償と領土の割譲が、その話に多くの人が耳を傾ける土壌を作った。
戦後、軍の情報員として小さな政党の集会を調べに行き、そのまま入党した。この党がのちに国民社会主義ドイツ労働者党、いわゆるナチ党になる。彼の演説はビアホールに集まる人々を熱狂させ、1921年には党首になった。

1923年11月、ミュンヘンのビアホールで武装蜂起を起こし、ベルリンへ進軍しようとしたが、警官隊の発砲で鎮圧された(ミュンヘン一揆)。クーデターに失敗して投獄され、獄中で『わが闘争』を口述した。ユダヤ人を世界の敵とし、ドイツ民族が東方に「生存圏」を獲得すべきだと説く書物である。禁錮5年の判決だったが、9か月ほどで釈放された。
そこから、合法的に政権を取る方針に変えた。選挙で議席を得て、議会の内側から権力を握る。1929年の世界恐慌でドイツの失業者が600万人に達すると、ナチ党の支持は急伸した。1928年に2.6%だった得票は、1932年7月の選挙で37%を超え、第一党になった。過半数には届かず、同じ年の11月の選挙では得票を減らしている。

翌1933年1月30日、大統領ヒンデンブルクが彼を首相に任命する(ナチスの政権掌握)。保守派の政治家たちは、彼を内閣に取り込んで飼いならせると考えていた。閣僚のうちナチ党員は彼を含めて3人だけだった。
そこから独裁へ移った。2月27日の国会議事堂放火事件を共産党の陰謀だとして、翌日、大統領の緊急命令で言論や集会の自由など基本的な権利を停止させた。ヴァイマル憲法の第48条が、大統領に非常時の命令の権限を与えていた。3月の選挙でもナチ党の得票は44%にとどまったが、共産党の議員を逮捕して議場から締め出し、突撃隊が議場を囲む中で、政府が議会を通さずに法律を作れる全権委任法を可決させた。反対したのは社会民主党だけだった。その年のうちに、他の政党はすべて解散させられた。

クーデターは無い。
民主的な制度が、その手続きに従って独裁を生んだ。1934年8月、ヒンデンブルクが死ぬと、大統領の職を首相と統合して「総統」となり、軍に自分個人への忠誠を誓わせた。

ユダヤ人は公職から追われ、1935年の法律で市民権を奪われ、ユダヤ人でない人との結婚を禁じられた。再軍備を進め、1938年にはオーストリアを併合し、ミュンヘン会談でチェコスロヴァキアの一部を手に入れた。イギリスとフランスは戦争を避けようと譲歩を重ねた。1939年8月にソ連と不可侵条約を結ぶと、9月1日にポーランドへ攻め込み、第二次世界大戦が始まった。
1941年6月にはソ連へ攻め込んだ。占領した東方の地では、ユダヤ人の大量の銃殺が始まり、1942年のヴァンゼー会議を経て、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅収容所に送る計画が組織的に進められた。ユダヤ人およそ600万人が殺された(ホロコースト)。ロマ、障害のある人々、同性愛者、ソ連軍の捕虜なども大量に殺されている。

戦況が悪化しても、彼は撤退を許さなかった。1944年7月には軍の将校たちによる爆弾での暗殺未遂を生き延び、関わった者を処刑した。1945年4月、ソ連軍がベルリンに迫る中、首相官邸の地下壕で長年の恋人エヴァ・ブラウンと結婚し、翌30日、ともに自殺した。56歳だった。遺体は側近たちが外に運び出して焼いた。
その過程を研究することが、戦後の憲法設計の出発点になっている。西ドイツの基本法は、大統領の非常大権を削り、首相を辞めさせるには後任を決めなければならないとし、民主的な秩序そのものを壊そうとする政党を禁止できる仕組みを置いた。民主制が自らの手続きで独裁を選びうるという教訓は、ドイツに限らず、各国の制度の議論でいまも引かれている。