できごと

西安事件

Xi'an Incident
AD1936年12月12日
重要度 5
西安事件に関わる図版:Zhang Xueliang, Yang Hucheng and Chiang Kai-shek
Zhang Xueliang, Yang Hucheng and Chiang Kai-shek Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

共産党を討てと言われていた張学良が、満洲を日本に取られたまま、内戦を続けることに耐えられなくなって、督戦に来た蒋介石を華清池で捕らえた。「抗日のために内戦を止めろ」。周恩来が来て交渉した。ソ連が蒋を殺すなと言った。2週間で蒋は釈放され、口約束で国共合作。張学良は蒋について南京へ行き、54年、軟禁された。

場所

西安
34.34°N 108.94°E · 中国・陝西省

関わった人(2)

蒋介石AD1887年10月31日–AD1975年4月5日 · 捕らえられた周恩来AD1898年3月5日–AD1976年1月8日 · 交渉した

本文

張学良は、満洲を支配した軍閥・張作霖の長男である。1928年、父は奉天郊外で関東軍に列車ごと爆破されて死に、27歳の張学良が東北の軍と土地を継いだ。彼は国民政府の旗を掲げて蒋介石の下に入り、中国の統一を形の上で完成させた。ところが1931年、満洲事変が起きると、東北軍は大きな抵抗をせずに関内へ退き、満洲は半年ほどで日本の手に落ちた。張学良は「不抵抗将軍」と罵られた。不抵抗の判断が蒋介石の指示によるものか、張学良自身のものかは、いまも説が分かれている。晩年の張学良は、自分の判断だったと語っている。

蒋介石の方針は「安内攘外」、まず国内(共産党)を平らげ、それから外敵(日本)に当たる、というものだった。紅軍は1934年から長征で南方の根拠地を捨て、1935年秋に陝西省の北部へたどり着いた。蒋介石は西安に西北の討伐の本部を置き、張学良を副司令に任じて、故郷を失った東北軍の十数万の兵に紅軍を討たせた。東北軍は1935年の秋から冬にかけて、いくつかの戦いで師団ごと敗れた。紅軍は捕虜を厚く扱い、「中国人は中国人と戦うな、一緒に日本と戦おう」と説いて帰した。その言葉は、故郷に帰りたい東北の兵に効いた。

拉致監禁された蔣介石軍事委員長
拉致監禁された蔣介石軍事委員長Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

張学良はひそかに共産党と連絡を取り始めた。1936年4月、延安で周恩来と夜を徹して会談した。当時の延安はまだ東北軍の側の町で、会談の場は教会だったと伝えられる。西安に駐屯するもう一つの軍、西北軍を率いる楊虎城も、同じように内戦の停止を望んでいた。前線では、東北軍と紅軍のあいだに事実上の停戦が広がっていった。

蒋介石はそれを察していた。1936年12月4日、自ら西安に乗り込み、郊外の臨潼にある華清池に宿を取った。唐の玄宗と楊貴妃の温泉で知られる離宮である。蒋は張学良と楊虎城に、討伐を続けるか、軍を南方へ移されるかを迫り、新しい攻勢の日程を決めた。12月9日、西安の学生たちが、前年の北平の学生運動(一二・九運動)の一周年を記念してデモを行い、華清池へ向かった。張学良は途中で学生を押しとどめ、「1週間のうちに、行動で答える」と約束した。

ヨシフ・スターリンの肖像(1942年)
ヨシフ・スターリンの肖像(1942年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author ; image flipped by Gaeser ( talk ) · Public domain

12月12日の未明、張学良の親衛隊が華清池を襲った。銃声で目を覚ました蒋介石は、寝間着のまま裏の塀を越えて驪山の斜面へ逃げ、岩の割れ目に身を潜めた。逃げる途中で背中を痛め、入れ歯も置いてきたと伝えられる。夜が明けてから見つかり、西安の城内へ連れて行かれた。同じ朝、楊虎城の部隊は西安の城内で、蒋に随行してきた国民政府の高官や将軍たちを拘束した。張学良と楊虎城は全国に電報を打ち、八か条の要求を掲げた。南京政府を改組して各党派を入れること、内戦を止めること、上海で捕らえられた救国運動の指導者たちと政治犯を釈放すること、民衆の愛国運動と集会・結社の自由を認めること、孫文の遺嘱を守ること、救国会議をすぐ開くことである。

南京は割れた。軍政部長の何応欽らは討伐を主張し、軍を西安へ向け、飛行機で威嚇した。蒋を見殺しにして実権を握るつもりではないか、と疑う者もいた。蒋の妻の宋美齢と、その兄の宋子文は、武力に訴えれば蒋の命が危ないとして交渉を求めた。蒋の顧問だったオーストラリア人のドナルドがまず西安に飛び、宋子文と宋美齢も続いた。モスクワの態度も決定的だった。ソ連の新聞は事件を日本の差し金だと書き、コミンテルンは中国共産党に、平和的な解決を指示した。スターリンにとって、日本と戦える中国の指導者は蒋介石しかいなかった。延安では当初、蒋を人民の裁判にかけよという声もあったが、12月17日に周恩来が西安に入り、蒋の釈放と引き換えに抗日の統一戦線を作る方向で交渉をまとめていった。

軟禁中の蔣介石と関係者
軟禁中の蔣介石と関係者Wikimedia Commons Timshi · Public domain

12月24日、蒋介石は周恩来と会った。蒋は文書には署名せず、口頭で内戦の停止と抗日への方針転換を約束した。翌25日の午後、蒋は釈放され、飛行機で洛陽を経て南京へ戻った。張学良は止める周囲を振り切って、自ら蒋に付き添って南京へ飛んだ。責任を取る、という意思表示だったとされる。

南京で、張学良は軍法会議にかけられ、懲役10年の判決を受けた。すぐに特赦が出たが、そのまま「厳重な管理」の名で軟禁された。張学良は1946年に台湾へ移され、軟禁は1975年に蒋介石が死んだ後も続いた。公の場に姿を見せられるようになったのは1990年、90歳の誕生日の祝いの席である。事件から54年が経っていた。その後ハワイに移り、2001年、100歳で死んだ。楊虎城は1937年に外遊を命じられ、帰国後に捕らえられて、国共内戦の末期の1949年、重慶で家族とともに殺された。

張学良と楊虎城
張学良と楊虎城Wikimedia Commons ROC reporter · Public domain

事件の後、国共の関係はすぐには変わらなかった。1937年2月の国民党の会議は、表向きは共産党を退ける決議を掲げながら、内戦を止める方向へ動いた。7月に盧溝橋事件が起きて日中戦争が全面化すると、9月に第二次国共合作が成立し、陝西北部の紅軍は八路軍に、南方に残った部隊は新四軍に改編された。共産党は討伐で消える寸前から、抗日の旗の下で党と軍を大きくした。1937年に4万ほどだった党員は、1945年には120万を超えた。張学良は台湾で長く口を閉ざしたが、晩年、事件のことを後悔していないと語ったとされる。

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