ブレトン・ウッズ会議
概要
ノルマンディー上陸の3週間後、44か国の代表がニューハンプシャーの山中のホテルに集まった。目的は、両大戦の間の混乱——為替の切り下げ競争、ブロック経済、そしてそこから戦争へ至った道——を繰り返さない仕組みを作ることである。ケインズは、どの国にも属さない国際通貨バンコールと、黒字国にも調整を課す清算同盟を提案した。アメリカのホワイト案が通った。ドルを金に固定し(1オンス35ドル)、各国通貨をドルに固定する。IMFと世界銀行ができた。
場所
44.26°N -71.44°E · アメリカ・ニューハンプシャー州
関わった人(1)
ジョン・メイナード・ケインズAD1883年6月5日–AD1946年4月21日 · 案を出した本文
1944年7月1日、アメリカ北東部ニューハンプシャー州のホワイト山地のふもとにある大きなリゾートホテルに、世界各地から人々が集まってきた。赤い屋根のマウント・ワシントン・ホテルは1902年に建てられたが、大恐慌以来ほとんど閉ざされていて、会議のために慌てて開け直された。従業員は足りず、暖房は壊れ、水道管は漏れた。参加者たちの回想には、部屋や食事への不満が数多く残っている。静かで外から隔てられ、夏も涼しいこの山の中が会場に選ばれた背景には、地元選出の有力な上院議員の支持を得やすくするという政治の計算もあったとされる。
ノルマンディーに連合軍が上陸してから、まだ3週間あまりしかたっていなかった。ヨーロッパでも太平洋でも戦争は続いていた。それでも44か国、730人の代表が、戦争の後の世界の経済の仕組みを話し合うために集まったのは、前の戦争の後に何が起きたかを、皆が覚えていたからである。
第一次世界大戦の後、各国は戦前の金本位制に戻ろうとしたが、うまくいかなかった。1929年に世界恐慌が始まると、国々は自分の身を守ることに走った。自国の通貨の価値をわざと下げて輸出を有利にしようとし、他の国も負けじと切り下げる。誰も得をしない、隣の国を貧しくする政策の競争である。

1930年、アメリカはスムート・ホーリー法で関税を大幅に引き上げ、各国が報復して関税を上げ合った。世界の貿易は数年のうちに大きく縮んだ。金本位制は崩れ(金本位制の崩壊)、イギリスは帝国の内側を優遇する特恵の仕組みに、フランスは自分の通貨の圏内に閉じこもり、ドイツや日本は武力で自らの経済圏を広げようとした。その行き着いた先が、二度目の世界大戦だった。経済の分断が戦争を生んだという理解が、この会議の出発点にあった。
会議には、ソ連も中国も、まだイギリスの支配下にあったインドも、亡命政府を含むヨーロッパの国々も加わった。だが実際に議論の行方を決めたのは、二人の人物だった。一人はイギリス代表団を率いた経済学者ジョン・メイナード・ケインズである。このとき61歳。

数年前に心臓の発作を起こし、戦争中の交渉のために大西洋を何度も往復するたびに、体は弱っていった。もう一人は、アメリカ財務省の高官ハリー・デクスター・ホワイトだった。ロシアから来たユダヤ系移民の家に生まれ、苦学して経済学の博士号を取り、財務長官モーゲンソーの信頼を得ていた。
二人の構想は、根本のところで対立していた。ケインズは「国際清算同盟」という仕組みを提案した。どの国のものでもない国際通貨「バンコール」を作り、各国は貿易の支払いを、この同盟に置いた口座を通じて行う。そして核心は、貿易の赤字を出した国だけでなく、黒字をため込みすぎた国にも調整の責任を負わせることだった。

ふつう、立て直しを迫られるのは赤字の国である。輸入を減らし、財政を絞り、失業を受け入れる。だが不均衡は、黒字の国と赤字の国の両方がつくっている。赤字の国だけに我慢を強いれば、世界全体の経済が縮んでしまう。だからケインズの案では、黒字が一定の額を超えた国には利子のような負担を課し、通貨の切り上げや、国内の需要を増やすことを求めた。
ホワイトの案は違った。アメリカのドルを金に結びつけ、金1オンスを35ドルと定める。ほかの国々の通貨は、そのドルに対して交換の比率を固定する。国際収支が一時的に赤字になった国には、各国が出し合った基金から短い期間の資金を貸す。基金の規模はケインズの構想よりはるかに小さく、黒字の国に調整を求める仕組みは無かった。

勝負は、最初から見えていた。当時のアメリカは、世界の金の準備の3分の2ほどを持ち、世界最大の貸し手であり、最大の黒字国だった。ケインズの案は、そのアメリカに調整の責任を負わせるものである。アメリカがそれを受け入れる理由は無かった。一方のイギリスは、戦争の費用のために海外の資産を売り払い、アメリカからの武器と物資の貸与に頼っていて、事実上破産に近い状態だった。交渉で強く出られる立場ではなかった。
7月22日、参加国は最終の議定書に署名した。金1オンスを35ドルとし、アメリカは外国の中央銀行が持ち込むドルを、この比率で金と交換することを約束した。各国の通貨はドルに対して固定され、上下1%の幅でしか動かないようにする。ただし、国際収支に根本的な不均衡がある場合には、新しく作る国際通貨基金(IMF)の同意を得て、比率を変えることができる。完全な固定ではなく、調整できる固定相場である。

国際通貨基金は、各国が割り当てられた額を出資して作り、国際収支が苦しくなった国に短期の資金を貸す。投票の重みは出資の額に比例するので、最大の出資国アメリカが最も大きな発言力を持つことになった。もう一つ、戦後の復興と開発のための長期の資金を貸す国際復興開発銀行が作られた。のちの世界銀行である。実際には、ヨーロッパの復興の大部分は1948年からのマーシャル・プランが担い、世界銀行の仕事は次第に途上国の開発へ移っていった。
貿易を扱う国際機関も構想されたが、アメリカ議会がその条約の批准を拒み、代わりに1947年、関税と貿易に関する一般協定が結ばれた(GATTの調印)。それが国際機関として形を整えるのは、1995年の世界貿易機関の発足のときである(世界貿易機関)。

会議の後、ケインズはアメリカからの借款の交渉のためにワシントンへ赴き、イギリスにとって厳しい条件をのまされた。その心労が、弱った体をさらに蝕んだ。1946年4月、彼は62歳で世を去った。会議に参加したソ連は、結局この協定を批准しなかった。
アメリカが支配する仕組みに加わることを、スターリンは拒んだのである。冷戦の始まりを告げる分かれ道の一つとされる。ヨーロッパの主な通貨が実際に自由に交換できるようになったのは1958年の末で、この仕組みが本格的に動いたのは、それからのことだった。
ホワイトのその後は暗い。1948年、彼は下院の非米活動委員会に呼ばれ、ソ連のために情報を流していたと告発された。彼は委員会でそれを否定する証言をしたが、その3日後、心臓の発作で死んだ。55歳だった。
1990年代に公開された、ソ連の暗号通信を解読した記録は、彼がソ連の情報機関と接触していたことをうかがわせる。ただ、何をどこまで、どんな動機で行ったのかについては、いまも議論が分かれている。ソ連のスパイだったとする見方と、戦時の同盟国との協力を独断で行った官僚だったとする見方が並んでいる。こうした告発の空気は、やがてマッカーシズムへとつながっていく。

ブレトン・ウッズの仕組みには、はじめから矛盾が埋め込まれていた。1960年、ベルギー出身の経済学者ロバート・トリフィンが、それを指摘した。世界の経済が成長するには、国際的な支払いに使われるドルが、世界に供給され続けなければならない。だがドルが世界にあふれるほど、アメリカが持つ金の量に比べて、出回るドルが多くなりすぎる。
やがて、本当に約束通り金と換えてもらえるのか、という疑いが生まれ、疑いが広がれば交換の請求が殺到する。1960年代、ベトナム戦争と国内の大規模な社会政策でアメリカの財政は悪化し、ドルは国外へ流れ出した。フランスはドルを金に換えるよう求め、大統領ド・ゴールは金を基礎にした仕組みへの回帰を公然と唱えた。フランスの財務相ジスカール・デスタンは、ドルが持つ立場を「法外な特権」と呼んだとされる。
1971年8月15日、ニクソン大統領はテレビで、ドルと金の交換を停止すると発表した(金とドルの交換停止)。一時的な措置だと説明されたが、交換が再開されることは無かった。1973年には主要な国々が変動相場制に移り、ブレトン・ウッズの仕組みは、およそ四半世紀で終わりを迎えた。

それでも、この会議が残したものは多い。国際通貨基金と世界銀行は、いまも活動を続けている。国際通貨基金は、危機に陥った国々に資金を貸し、その代わりに厳しい条件を課す機関として知られるようになり、1997年のアジア通貨危機での対応は強い批判を浴びた。金との結びつきを失った後も、ドルが世界の基軸の通貨である状態は続いている。
そしてケインズのバンコールの構想も、忘れられてはいない。2008年の金融危機の後、中国の中央銀行の総裁は、一つの国の通貨に頼らない国際的な準備通貨を考える論文の中で、バンコールに触れた。マウント・ワシントン・ホテルはいまも営業していて、協定が署名された部屋は、当時の姿のまま残されている。