金属類回収令
概要
銅と鉄が足りない。政府は、寺の梵鐘、家庭の鍋と釜、火鉢、仏具、門扉、そして銅像を供出させた。町内会と隣組が割当を負い、出さない家は非国民と呼ばれた。全国で数万口の梵鐘が失われたとされる。渋谷のハチ公像も供出された。集めた金属の多くは、選別と輸送と溶解が追いつかず、山積みのまま終戦を迎えている。物が足りないことより、全員が差し出したという事実のほうが、目的として大きかったと論じられている。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
日中戦争が長引くにつれ、日本は鉄と銅に困るようになった。鉄鉱石も屑鉄も石油も、多くを輸入に頼っていたからである。なかでも屑鉄の最大の輸入元はアメリカ合衆国で、1930年代の後半には輸入の大半がアメリカから来ていた。そのアメリカが1940年10月に屑鉄の対日輸出を止め、1941年8月には石油の輸出も止めた。武器も船も、作る材料が先細りになっていった。
物を集める動きは、それ以前からあった。1937年の日中戦争の開始とともに廃品の回収が呼びかけられ、1938年の国家総動員法で、政府は議会を通さずに物資と人を動員する権限を手にした。家庭の不要品の献納が奨励され、銅製品の使用も制限された。ただし、ここまでは呼びかけと献納が中心だった。

1941年8月30日、金属類回収令(勅令第835号)が公布され、9月1日から施行された。回収に法の強制力が与えられたのである。形の上では買い上げで、代金は払われた。しかし価格は統制され、出すか出さないかを選ぶ余地は事実上無かった。対象はまず官公庁や会社の設備から始まり、やがて寺や家庭へ広がっていく。開戦後の1943年には回収令が改められ、回収はさらに強められた。
いちばん目立ったのは、寺の梵鐘である。1942年ごろから供出が本格化し、全国の寺から鐘が下ろされた。失われた鐘は数万口に及んだとされ、全体の大半が失われたと見られているが、正確な数には幅がある。出征兵士を送るように鐘を送り出す法要が各地で営まれた。古い鐘のうち、文化財として指定されたものや、山深く運び出せなかったものは残った。いま日本の寺に下がっている鐘の多くは戦後に作り直されたもので、由緒書きに「先代の鐘は昭和十何年に供出」と記した寺は数えきれない。

家庭からも、鍋や釜、やかん、火鉢、鉄瓶が集められた。仏壇の燭台や花立てといった仏具も対象になった。町の門扉や鉄柵、階段の手すり、ベンチの金具、学校の鉄棒も外された。公園や学校、駅前の銅像も台座から下ろされた。渋谷駅前のハチ公の像もその一つで、1944年に供出された。像を作った彫刻家の安藤照は翌1945年5月の空襲で亡くなり、戦後の1948年、息子の安藤士が二代目の像を作った。いま駅前にあるのはその二代目である。全国の小学校にあった二宮金次郎の像も、銅のものは姿を消し、石やコンクリートの像に置き換えられた。
金属の不足は、財布の中にも表れた。1938年から銅やニッケルの硬貨は次々にアルミや錫の硬貨に置き換えられ、戦争の末期には陶器で作った硬貨まで試作された。この陶製の硬貨は、刷り上がったものの使われずに終わっている。
集める仕組みの中心にいたのは、町内会と隣組である。1940年、十戸ほどを一組とする隣組が全国で制度として整えられ、配給も防空も回覧板も、この単位で回るようになった。回収の割当もこの単位に下りてきた。この班から鉄を何貫、という具合である。供出の様子は近所に知られ、出し渋る家は非国民と陰口をたたかれた。1942年に発足した大日本婦人会の女性たちが家々を回り、残っている火鉢や鍋を指さして出すよう促すこともあった。罰則による強制より、この顔の見える圧力のほうがよく効いたと論じられている。
集まった金属は、ところが、思うように役立たなかった。銅や真鍮や鉄や鉛が混ざり、木や塗料が付いたまま集まるので、選り分けに手間がかかる。運ぶ船と貨車が足りず、船は次々に沈められていた。溶かす炉も、炉を動かす石炭も電力も足りない。各地の集積場には、仕分けられないまま山積みの金属が残り、そのまま終戦を迎えた例が少なくない。戦後、その山から鍋や釜が持ち主に返されたという記録もあるが、多くは屑鉄として処分された。

では、何のための回収だったのか。物資を確保する方法としては効率が悪く、当局も途中からそれに気づいていたと見られる。それでも回収は続けられた。そこで、全員が差し出したという事実のほうが、目的として大きかったのではないかという見方が、戦後の研究で繰り返し示されてきた。自分も戦争に加わっているという感覚を一人一人に持たせ、共同体の中で誰も逃げられないようにする。動員とは物を集めることであると同時に、人をその仕組みに組み込むことでもあった。
金属の回収は日本だけのことではない。イギリスでは1940年から、公園や住宅の鉄柵が切り取られた。その多くが使われずに捨てられたという話が長く語られてきたが、確かなことは分かっていない。ロンドンの街には、いまも低い塀の上に、切り取られた鉄柵の跡が残っている。アメリカでは子どもたちが学校で競い合って屑鉄やゴムを集めた。生産と輸送の力に余裕があったアメリカでは、集めたものが実際に使われている。ドイツは自国の教会の鐘を下ろしただけでなく、占領地からも鐘を運び去った。ハンブルクの港には各地から集めた鐘が山をなし、鐘の墓場と呼ばれた。戦後に一部は元の町へ返されたが、多くは溶かされたあとだった。

日本の回収令は1945年の敗戦とともに意味を失った。梵鐘も銅像も、家の道具も、元には戻らない。開戦に至る経緯はハル・ノートや真珠湾攻撃の項目に譲るが、鍋釜まで差し出させた回収は、資源の乏しい国が長い戦争に踏み込んだことの、最も身近な痕跡として各地の寺と家に記憶されている。