人物

パットン

George S. Patton
AD1885年11月11日 – AD1945年12月21日(享年60)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

象牙の柄のリボルバー。1912年の五輪で近代五種。シチリアで神経症の兵を殴って解任されかけた。第3軍でフランスを横断し、バルジで3日で向きを変えてバストーニュへ。「私は戦争が好きだ」。戦後、ソ連と戦えと言い、ドイツで交通事故で死んだ。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

バルジの戦いAD1944年12月16日 · 救援

本文

ジョージ・スミス・パットン。1885年11月11日、カリフォルニアのサン・ガブリエルの裕福な家に生まれた。祖父は南軍の大佐で、南北戦争で戦死している。家には先祖の軍人の肖像が並び、少年は自分も戦場で名を上げる運命だと信じて育った。読み書きの覚えが遅く、後の研究者には読字障害があったのではないかと見る人もいる。父が本を読み聞かせ、パットンは古典の戦記を耳で覚えた。

ジョージ・パットン将軍(1945年)
ジョージ・パットン将軍(1945年)Wikimedia Commons Robert F. Cranston / Harry Warnecke · CC0

ヴァージニア軍事学校で1年学んだあとウェストポイントに入り、数学で落第して1年余計にかかったが、1909年に騎兵少尉として卒業した。1912年のストックホルム・オリンピックでは、陸軍代表として近代五種に出て5位になった。射撃の成績が振るわず、本人は弾が前の弾痕を通り抜けたのだと主張したと伝わる。翌年には、突くことを重んじる新しい騎兵刀を設計し、陸軍に採用された。

1916年、メキシコの革命家パンチョ・ビリャが国境を越えて町を襲うと、パーシング将軍の討伐軍に加わった(メキシコ革命)。このときパットンは自動車3台に兵を乗せて牧場を襲い、ビリャの部下の指揮官を撃ち倒した。アメリカ軍が自動車で行った最初の攻撃の一つとされ、新聞はパットンを英雄として書き立てた。

第一次世界大戦では新設の戦車部隊を任され、フランスで戦車学校を作った。1918年9月、サン・ミエルの攻勢で戦車を率い、続くムーズ・アルゴンヌの戦いで脚を撃たれて重傷を負った。戦間期は騎兵と戦車の間を行き来しながら、機甲戦の考えを温めた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1942年11月、北アフリカへの上陸作戦で、モロッコに上陸する部隊を指揮した。翌年、カセリーヌ峠でアメリカ軍がドイツ軍に大敗すると、第2軍団の立て直しを任された。規律を締め直し、軍団はやがてチュニジアで戦果を上げた。

1943年7月、シチリア上陸。パットンの第7軍は西へ回ってパレルモを落とし、東の海岸を進むイギリスのモントゴメリーと、島の北東端メッシーナへの一番乗りを競った。8月17日、アメリカ軍が先に着いた。モントゴメリーとの張り合いは、その後もずっと続く。

幼少期
幼少期Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その8月、パットンは野戦病院を見回り、外傷のない「戦闘疲労」の兵二人を臆病者と罵って殴りつけた。一人には拳銃を突きつけたとも伝えられる。最高司令官アイゼンハワーは彼を解任せず、本人に謝罪させて事を収めたが、秋に新聞が事件を報じると世論は激しく反発した。パットンはその後およそ11か月、実戦の指揮から外された。

その空白が、別の役に使われた。1944年、連合軍はノルマンディー上陸を隠すため、イギリス南東部に中身の大半が架空の「第1アメリカ軍集団」を置き、その司令官にパットンを据えた。ドイツ軍はいちばん恐れるアメリカの将軍がドーヴァー海峡の最も狭いところからカレーへ来ると信じ、上陸の後もしばらく大軍をカレー方面に留めた。

士官学校時代 (1909年)
士官学校時代 (1909年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1944年8月1日、パットンの第3軍が動き出した。ノルマンディーの南端アヴランシュを突破口に、ブルターニュへ、東へ、パリの南を抜けてセーヌへ、戦車が昼夜を分かたず走った。8月の終わりには燃料が尽き、補給はモントゴメリーの北の攻勢に優先して回された。パットンは憤ったが、9月からはロレーヌのメッツの要塞群の前で長く足止めされた。

1944年12月、ドイツ軍がアルデンヌの森で反攻に出た(バルジの戦い)。12月19日、ヴェルダンでの会議でアイゼンハワーが反撃の時期を尋ねると、パットンは48時間後に3個師団で北へ攻める、と答えた。南のザールへ東向きに攻めていた軍を、冬の道で90度向きを変えさせるというのである。会議の前から幕僚に何通りかの計画を作らせていたからできた返答だった。第3軍は予告どおり22日に攻撃を始め、26日、包囲されていたバストーニュに先頭の戦車がたどり着いた。厚い雲で航空支援が使えなかったため、パットンは従軍司祭に晴天を祈る祈りの文を作らせ、兵に配った。23日ごろから空が晴れたのは偶然だが、本人は大いに喜んだという。

バルジの戦いに関わる図版:117th Infantry North Carolina NG at St. Vith 1945
バルジの戦いWikimedia Commons U.S. Army · Public domain

1945年3月、第3軍はオッペンハイムでライン川を渡った。パットンは仮設の橋の上から川に小便をしてみせ、その写真が残っている。5月の終わりには部隊はオーストリアとチェコに入っていた。

戦争が終わると、パットンは居場所を失った。ソ連と今のうちに戦うべきだと公然と言い、バイエルンの軍政長官としては、行政を回すためにナチ党員だった役人を使い続けた。記者に、ナチ党員になった者の多くは、アメリカで民主党員や共和党員になるのと同じようなものだ、と語ったことが大きく報じられ、1945年10月、第3軍の指揮を解かれた。

パットンがデザインに参加したM1913騎兵刀。通称「パットンサーベル」
パットンがデザインに参加したM1913騎兵刀。通称「パットンサーベル」Wikimedia Commons A Member of the United States Armed Forces · Public domain

同じ年の12月9日、マンハイムの近くで、乗っていた軍の乗用車がトラックとぶつかった。ほかの乗員はほとんど無傷だったが、パットンは首の骨を折り、全身が動かなくなった。12日後の12月21日、ハイデルベルクの病院で死んだ。60歳。遺体は、本人の望みどおり、ルクセンブルクのハムの米軍墓地に、第3軍の兵たちと並んで葬られた。

パットンは象牙の握りの拳銃を腰に下げ、ぴかぴかの兜をかぶり、汚い言葉で兵を叱咤した。上陸を前に第3軍に向けた演説の中の、祖国のために死ぬのではなく、敵を彼の祖国のために死なせるのだ、という一節がよく知られている。一方で、自分は古代ローマの兵士やナポレオンの元帥の生まれ変わりだと信じ、それを詩にも書いた。戦場の外では扱いにくい人だった。

1919年から1920年頃
1919年から1920年頃Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

1970年、映画『パットン大戦車軍団』で彼を演じたジョージ・C・スコットはアカデミー主演男優賞に選ばれ、受賞を拒んだ。この映画で、パットンはまた有名になった。機甲部隊の速さを誰よりも使いこなした将軍としての評価と、兵を殴った男としての記憶は、いまも並んで残っている。第二次世界大戦を象徴する指揮官の一人である。

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