概要
1938年11月の水晶の夜のあと、イギリスは、ナチ・ドイツの支配下にいるユダヤ人の17歳以下の子どもを、親を伴わずに受け入れることを決めた。1938年12月から第二次世界大戦が始まる翌年9月まで、ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキアなどから、およそ一万人の子どもが列車と船でイギリスへ渡った。受け入れの費用は民間が保証し、子どもたちは里親の家や施設に引き取られた。駅のホームで親と別れた子どもの多くは、二度と親に会えなかった。親たちは、その後ホロコーストで殺された。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
1938年11月9日の夜、ドイツとオーストリアの各地で、ユダヤ人の商店とシナゴーグが襲われ、焼かれた(水晶の夜)。百人近くが殺され、およそ三万人のユダヤ人の男たちが強制収容所に送られた。ドイツに住むユダヤ人の家族は、国を出る道を必死に探したが、多くの国は難民の受け入れを渋っていた。
イギリスのユダヤ人の団体やクエーカー教徒の団体は、政府に働きかけた。11月21日、イギリスの議会は、17歳以下の子どもに限って、ビザなしで受け入れることを決めた。条件は、子どもの暮らしと教育の費用を、民間の団体や個人が保証すること、そして子どもはいずれ国に帰ることだった。親は一緒に来ることを許されなかった。
最初の列車は、1938年12月1日にベルリンを出て、翌日、子どもたちを乗せた船がイギリスのハリッジの港に着いた。それから9か月、ドイツ、オーストリア、チェコスロヴァキア、ポーランド、自由都市ダンツィヒから、列車と船による輸送が続いた。駅のホームでは、親たちが子どもに小さな鞄を持たせ、すぐにまた会えると言い聞かせて送り出した。オランダの女性ヘルトロイダ・ヴェイスミュラーは、ナチの役人と交渉して子どもたちを送り出した一人である。プラハでは、イギリスの青年ニコラス・ウィントンが、669人の子どもの輸送を組織した。
イギリスに着いた子どもたちは、里親の家庭や、寮、農場に引き取られた。愛されて育った子もいれば、召使いのように扱われた子もいた。言葉も分からない国で、多くの子どもが親からの手紙を待ち続けた。1939年9月1日、ドイツがポーランドに攻め込み、戦争が始まると、輸送は止まった。運ばれた子どもは、およそ一万人だった。
戦争が終わったとき、子どもたちの多くは、親がホロコーストで殺されたことを知った(ホロコースト)。親と再会できた子は少なかった。のちに大人になった子どもたちの中からは、ノーベル賞の受賞者や、芸術家、学者が出た。ウィントンの行いは、彼自身が語らなかったため長く知られず、1988年、イギリスのテレビ番組で、助けられた人々が彼を囲んで初めて広く知られた。