日中戦争

概要
8年に及び、中国側の死者は1000万を超えるとされる。南京では大規模な虐殺が起きた。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
本文
戦争の種は、1931年の満洲事変にまかれていた。日本の関東軍は奉天郊外で鉄道を自ら爆破し、それを中国軍のしわざとして満洲の全域を占領した。翌年には清の最後の皇帝溥儀を立てて満洲国を作った。国際連盟がこれを認めなかったため、日本は連盟を脱退する。その後も日本軍は、満洲の南の華北を国民政府から切り離そうと工作を続けた。
中国の側は、まとまっていなかった。蒋介石の国民政府は、日本との戦いより先に共産党を倒すことを優先していた。1936年、張学良が西安で蒋介石を監禁し、内戦をやめて日本と戦うよう迫った(西安事件)。これをきっかけに、国民党と共産党はふたたび手を組む方向へ動く。

1937年7月7日の夜、北京の郊外、盧溝橋の近くで、演習中の日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれた(盧溝橋事件)。誰が撃ったのかは、いまも確かではない。現地では停戦の話し合いがまとまりかけたが、日本の政府と軍は増援を決め、中国の側も譲らなかった。小さな衝突から、全面戦争になった。
宣戦布告は、双方ともしていない。日本は「支那事変」と呼んだ。布告すれば、アメリカの中立法によって、戦争をしている国への武器や物資の輸出が止まるおそれがあった。日本も中国も、アメリカからの物資を必要としていた。

7月末には北平(北京)と天津が日本軍に占領された。8月には戦火が上海に飛び、3か月にわたる激しい市街戦になった。国民政府は精鋭の部隊をここに注ぎ込み、日本側も予想をはるかに超える死傷者を出した。上海を抜いた日本軍は、そのまま首都南京へ向かった。
1937年12月13日、南京が陥落した。その前後から数週間にわたって、日本軍は捕虜や一般の市民を殺害し、略奪と強姦を重ねた(南京事件)。南京では大規模な虐殺が起きた。犠牲者の数は、数万人から30万人以上まで、立場と数え方によって大きく異なり、論争が続いている。日本政府も、非戦闘員の殺害や略奪があったことは否定できない、という立場をとっている。

首都を落とせば中国は降伏する、という日本の見通しは外れた。国民政府は武漢へ、さらに長江をさかのぼって内陸の重慶へ移り、抵抗を続ける。1938年1月、首相の近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と声明し、交渉の道を自ら閉ざした。日本軍はその年の秋までに武漢と広州を占領したが、戦線はそこで伸びきった。
日本の国内も、戦争の色に塗り替えられていった。1938年には国家総動員法が作られ、政府は議会の承認なしに人と物資を戦争に振り向けられるようになった。物資は配給制になり、贅沢は敵だと言われた。短期で終わるはずだった「事変」のために、国の仕組みそのものが戦時のものに変わっていった。

日本は都市と鉄道沿いを押さえたが、内陸の広さを支配できなかった。点と線を押さえても、そのあいだの面は取れない。日本軍は重慶に長期にわたって爆撃を加え、1940年には国民党を離れた汪兆銘を立てて南京に政権を作らせたが、戦争を終わらせる力にはならなかった。
戦争の犠牲は、日本軍の手によるものだけではなかった。1938年6月、国民政府軍は日本軍の進撃を止めるため、黄河の堤防を自ら切った。濁流が平野を呑み、溺死や、その後の飢えと疫病で数十万人が死んだとされる。1942年から翌年にかけての河南の大飢饉でも、膨大な数の人々が死んだ。

共産党は農村で勢力を広げた。日本軍の後方に根拠地を作り、ゲリラ戦を続けながら、農民に土地を分け、兵と支持を集めた。毛沢東の率いる党の勢力は、戦争のあいだに大きく伸びる。日本軍は、こうした根拠地に対して、村を焼き払う掃討作戦を行った。中国側はこれを、殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす「三光作戦」と呼んだ。
中国側の死者は1000万を超えるとされる。2000万以上とする推計もある。軍民の区別も、数字の根拠も、資料によって大きく違う。家を追われて難民となった人々は、数千万人にのぼった。
戦争の長期化は、日本を別の戦争へ押しやった。中国への補給路を断ち、資源を得るために、日本は1940年からフランス領インドシナへ兵を進めた。アメリカは石油の輸出を止め、中国からの撤兵を求めた。日本はこれを受け入れず、1941年12月、真珠湾攻撃でアメリカが参戦し、この戦争が第二次世界大戦の一部になる。

日本の陸軍の大半は、最後まで中国大陸に張り付いていた。終戦の時点で、満洲を除く中国本土だけでも100万を超える日本兵がいた。1945年8月、日本はポツダム会談で示された条件を受け入れて降伏した。
戦争が終わると、中国ではすぐに国民党と共産党の内戦が再開した。8年の戦争で力をつけた共産党が勝ち、1949年に中華人民共和国の成立が宣言され、国民政府は台湾へ移った。日本と中華人民共和国が国交を結ぶのは1972年のことである。この戦争をどう記憶し、どう語るかは、いまも両国のあいだの重い問題であり続けている。