概要
アドルフ・アイヒマンは、ナチ・ドイツの親衛隊で、ヨーロッパ中のユダヤ人を収容所へ送る列車の手配を取り仕切った。戦後、偽名でアルゼンチンに逃れていたが、1960年5月、イスラエルの情報機関に捕らえられ、ひそかにイスラエルへ運ばれた。1961年4月、エルサレムで裁判が始まる。防弾ガラスの箱の中の被告の前で、百人を超える生き延びた人々が、収容所で起きたことを語り、裁判の様子は録画されて世界に流された。12月、アイヒマンは死刑を言い渡され、翌年絞首刑になった。傍聴した哲学者アーレントは、命令に従っただけだと語る平凡な役人の姿を「悪の凡庸さ」と書いた。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
本文
アドルフ・アイヒマンは、ナチ・ドイツの親衛隊の中で、ユダヤ人の「移送」を担う課を率いた。1942年のヴァンゼー会議では記録を取り、その後、ヨーロッパ中のユダヤ人を、どの日にどの列車で、どの収容所へ運ぶかを取り仕切った。1944年には自らハンガリーへ乗り込み、数か月で四十万人を超えるユダヤ人をアウシュヴィッツへ送り出した。
戦後、アイヒマンはアメリカ軍の収容所から偽名のまま逃げ、1950年、リカルド・クレメントの名でアルゼンチンに渡った。ブエノスアイレスの郊外で、自動車工場の工員として家族と暮らしていた。イスラエルの情報機関モサドは、ドイツの検事からの情報をもとに彼の居場所を突き止め、1960年5月11日、仕事帰りのアイヒマンをバス停の近くで捕らえた。9日後、彼は薬で眠らされたまま、イスラエルの航空会社の機でひそかに運び出された。アルゼンチンは主権を侵されたとして国連に訴えた。
1961年4月11日、エルサレムの地方裁判所で裁判が始まった。裁判所は大きな会館の中に設けられ、アイヒマンは防弾ガラスで囲まれた被告席に座った。検察は、百人を超える生き延びた人々を証人に呼んだ。収容所で家族を失った人、ゲットーで戦った人。ある証人は証言の途中で気を失った。裁判は録画され、世界の国々で放送された。イスラエルの若い世代が、親たちが語らなかったことを初めて知る場にもなった。
アイヒマンは、自分は命令に従い、手配をしただけで、ユダヤ人を憎んだことは無いと言い張った。12月、裁判所は彼を、ユダヤ人に対する罪、人道に対する罪などで有罪とし、死刑を言い渡した。上訴は退けられ、1962年5月31日の深夜、絞首刑が執行された。遺体は焼かれ、灰はイスラエルの領海の外の海に撒かれた。イスラエルの通常の裁判所の判決で死刑が執行されたのは、この一度だけである。
裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントは、雑誌に報告を書き、のちに『エルサレムのアイヒマン』として出した。彼女は、アイヒマンを怪物ではなく、出世を気にかけ、決まり文句で話す平凡な役人として描き、考えることをやめた普通の人が巨大な悪を行いうるとして、「悪の凡庸さ」と呼んだ。この見方は激しい論争を呼び、のちの研究は、アイヒマンが熱心な反ユダヤ主義者だったことも示している。