『菊と刀』の刊行
概要
一度も日本へ行かないまま、収容された日系人と映画と本から書かれた日本人論。占領政策の参考にされ、日本でも翻訳が読まれ、批判もされ続けている。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ルース・ベネディクトAD1887年6月5日–AD1948年9月17日 · 著者本文
1944年の6月、アメリカの戦時情報局は、コロンビア大学の文化人類学者ルース・ベネディクトに日本の研究を頼んだ。戦争は終わりが見え始めていたが、日本軍は玉砕を重ね、捕虜になることを拒んでいた。日本人はどう考えるのか。何をすれば降伏するのか。降伏させたあと、天皇をどう扱えばよいのか。政府が知りたかったのは、敵の行動を読むための実用の知識だった。
ベネディクトは日本語を読めず、日本へ行ったこともなかった。戦時中で、行くこともできなかった。人類学の本来のやり方である現地での長い暮らしの代わりに、彼女は手に入るものを片端から使った。収容所や各地にいた日系アメリカ人からの聞き取り、英訳された小説や随筆、日本映画、新聞、そして日本兵の捕虜の尋問記録である。彼女はそれ以前に、北米の先住民の文化を比べた『文化の型』で知られていた。一つの社会には全体を貫く型がある、という考え方を、遠くから日本に当てはめたのである。

1945年にまとめた報告書は、日本人にとって天皇は特別な存在であり、天皇を退けたり罪に問うたりすれば、かえって抵抗を長引かせるという趣旨を含んでいた。占領の方針がこの報告によって決まったわけではないが、天皇を残して占領を進めるという判断を、人類学の側から支えた材料の一つだったとされる。
1946年11月、報告をもとに書き直した本が出た。題の菊は美を愛でる心を、刀は武を重んじる心を指し、日本人はその両方を矛盾なく持っている、という書き出しになっている。本は日本社会を、一人一人が決まった位置を持つ階層の網として描いた。人は生まれながらに「恩」を受け、それを返す「義務」と「義理」を負う。真珠湾攻撃の日に日本政府がアメリカに渡した覚書の「各々其ノ所ヲ得」という言葉を、ベネディクトはその考え方を表す鍵として引いた。そして、内面の良心に照らして自分を律する欧米の「罪の文化」と、他人の目と世間の評判で自分を律する日本の「恥の文化」という対比を示した。この対比は、本を読んだことのない人にまで広く知られるようになる。
本には具体的な場面も多い。名誉を傷つけられたら晴らさなければならない「名に対する義理」の例として、赤穂浪士の仇討ちの話が詳しく紹介されている。捕虜になった日本兵が、いったん捕まると一転して協力的になり、軍の秘密まで進んで話したことにも、彼女は注目した。それまで属していた秩序から切り離されると、新しい秩序にそのまま従おうとする。占領が始まったとき、日本人がアメリカ軍を拍子抜けするほど穏やかに迎えたことも、彼女はこの見方で説明した。読者にとって、それは驚きと納得の入り混じる説明だった。
ベネディクトは本が出た2年後の1948年に61歳で死んだ。同じ1948年、長谷川松治の訳で日本語版が出た。日本の読者は、自分たちが外からどう見られているかを初めてまとまった形で突きつけられ、本はよく売れた。同時に、反論もすぐに出た。翌年には学術誌が特集を組み、柳田國男、和辻哲郎らが批判を寄せている。戦時中の限られた材料から日本人一般を語っている。武士や地方の名望家の価値観を国民全体に広げ、時代と階層と地域の違いを消している。恥の文化という言い方は、日本人には内面の良心がないかのように読める。そうした指摘は、出た当初からあった。
それでも、この本ほど長く読まれた日本論は少ない。日本でもアメリカでも版を重ね、のちの日本人論の多くが、賛成するにせよ反対するにせよ、この本を出発点にした。敵国を理解するために書かれた本が、敗戦後の日本人にとって、自分を語るための言葉の型になったのである。マッカーサーのもとで進んだ占領改革と、天皇が神であることを否定した人間宣言の年に、この本は出ている。日本人が「世間」や「恥」という言葉で自分たちを説明するとき、その背後にはいまもこの本の影がある。