ビスマルク
概要
三つの戦争を計算ずくで使い、ドイツを統一した。統一後は一転して平和の維持に腐心する。
所属
ドイツ帝国関わったできごと(2)
スダン(セダン)の戦いAD1870年9月1日 · 挑発したドイツ帝国の成立AD1871年1月18日 · 主導本文
1815年4月1日、プロイセンのエルベ川沿いの領地シェーンハウゼンに生まれた。父はユンカーと呼ばれる東部の地主貴族で、母は学者や官僚を出した市民の家の出だった。ナポレオン戦争が終わった年である。

ゲッティンゲン大学で法律を学んだが、勉学より酒と決闘で名を知られ、在学中に20回以上決闘したと伝えられる。官僚になったものの、上司に従う仕事になじめずに辞め、20代は領地の経営に戻った。乱暴な振る舞いで「狂ったユンカー」と呼ばれたこともある。
1847年、プロイセンの議会に議員として入り、王権を守る保守派の論客として頭角を現した。翌年の三月革命では、自由主義者の要求を受け入れた王を苦々しく見ていた。1851年からはフランクフルトのドイツ連邦の議会にプロイセン代表として送られ、ドイツの主導権を握るオーストリアの代表と対立を重ねた。オーストリアがいる限り、プロイセンはドイツで二番手のままだと確信したのはここである。その後、ペテルブルクとパリで大使を務めた。

1862年、軍の改革の予算を巡って国王ヴィルヘルム1世と議会が衝突し、王が退位まで考えたとき、首相に呼ばれた。就任の直後、議会の予算委員会で、現在の大問題は演説や多数決によってではなく、鉄と血によって決せられる、と述べた。「鉄と血」で統一するという言葉はここから来ている。議会が予算を認めないまま、彼は4年にわたって予算なしで政府を動かし、軍の改革を進めた。
三つの戦争を、計算ずくで使った。

1864年、デンマークがシュレスヴィヒ公国を自国に組み込もうとすると、オーストリアを誘って共同で攻め、シュレスヴィヒとホルシュタインの二つの公国を奪った。次に、その二公国の管理を巡ってオーストリアと争いを起こし、1866年、戦争に持ち込んだ。プロイセン軍は鉄道と新式の銃で素早く兵を動かし、ケーニヒグレーツの戦いで大勝した。戦争は7週間で終わった。
オーストリアには寛大な講和条件を出している。将来の敵にしないためになる。勝利に沸く国王と将軍たちは、ウィーンへの入城と領土の割譲を求めたが、彼は激しく反対し、王と衝突しながら押し切った。オーストリアはドイツの問題から手を引き、プロイセンを中心に北ドイツ連邦が作られた。

最後の相手はフランスだった。南ドイツの諸邦を結集させるには、共通の敵との戦争が要ると彼は考えていた。1870年、スペインの王位継承を巡る問題で、フランスの大使がプロイセン王に要求を突きつけたことを伝える電報を、彼は短く削って新聞に公表した。王が大使を冷たくあしらったように読める文面になり、フランスの世論は沸き立って、フランスの側から宣戦した。南ドイツの諸邦はプロイセンの側について戦い、9月、スダンでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜になった。
1871年1月18日、包囲下のパリ郊外、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位した(ドイツ帝国の成立)。フランスには、逆に厳しくした。アルザスとロレーヌの一部を奪い、50億フランの賠償を課した。この屈辱は、フランスの側に長く復讐の思いを残すことになる。

統一後、方針が一転する。以後20年、戦争を避けることに腐心した。ドイツはヨーロッパの真ん中にあり、東西から挟まれれば危うい。複雑な同盟網を張って、フランスを孤立させる。オーストリア、ロシアとの三帝の協調、オーストリアとの同盟、イタリアを加えた三国同盟、そしてオーストリアと対立するロシアとも密かに再保障条約を結んだ。互いに矛盾しかねない約束を重ね、どの国もフランスと組まないようにした。
「私にとって、ドイツは飽和した国だ」と述べている。これ以上の領土は求めない、という意味である。1878年、ロシアとトルコの戦争の後始末を話し合うベルリン会議では、自ら「誠実な仲買人」と称して列強の間を取り持った。バルカン半島の問題は、ポメラニアの一人の兵士の骨にも値しない、とも語っている。植民地の獲得にも初めは消極的だったが、1880年代には世論に押されてアフリカなどに植民地を得て、1884年からのベルリン会議とアフリカ分割を主催した。

国内では、統一の敵になりうると見た勢力を次々に抑えつけた。カトリック教会と争い、1878年には社会主義者鎮圧法で社会民主党の活動を禁じた。社会主義者を弾圧しながら、同時に社会保険制度を作った(ビスマルクの社会保険)。1883年に疾病保険、翌年に労災保険、1889年に老齢・障害保険を作っている。国が労働者の生活を保障すれば、社会主義に引き寄せられることはない、という計算だった。国の制度としては世界で最初になる。
1888年、ヴィルヘルム1世が死に、跡を継いだフリードリヒ3世も3か月余りで病死した。29歳のヴィルヘルム2世は、老宰相の指図を嫌い、自分で国を動かそうとした。労働者政策などで衝突し、1890年3月、彼は辞任に追い込まれた。イギリスの風刺雑誌は、若い皇帝が見守る中で船を降りる老水先案内人として、その姿を描いている。
その皇帝が同盟網を解いた。ロシアとの再保障条約は更新されず、ロシアはやがてフランスと同盟を結ぶ。ドイツが恐れた東西からの挟み撃ちの形ができ、24年後、第一次世界大戦が始まる。同盟網の放棄だけが大戦の原因ではないが、彼が避けようとした構図そのものだった。

引退後はハンブルク郊外の領地で回想録を書き、新聞を通じて政府を批判し続けた。1898年7月30日、83歳で死んだ。墓には、皇帝ヴィルヘルム1世の忠実なドイツの臣、と刻ませている。統一を戦争で成し遂げた人物が、統一の後は平和の維持にすべてを注いだ。その両面が、彼の評価をいまも分けている。