ホロドモール

概要
ウクライナで数百万人が餓死した。急いだ集団化と穀物の徴発が重なった人為の飢饉で、いまジェノサイドと認める国が多い。
場所
49.99°N 36.23°E · ウクライナ
関わった人(1)
ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · 命令本文
1932年から33年にかけて、ソ連のウクライナで数百万人が飢えて死んだ。推計には幅があり、ウクライナだけで300万から500万とされる。近年の人口学の研究では、350万から400万前後とするものが多い。ウクライナ語で「ホロドモール」と呼ばれる。「飢え」と「死に至らしめる」を合わせた言葉で、ただの飢饉ではなく、人の手で殺されたという意味がこめられている。
ウクライナはソ連の穀倉だった。黒土の平原は小麦の大産地で、帝政ロシアの時代から穀物はここから輸出されてきた。ロシア革命の後、ボリシェヴィキの政権は内戦を経てウクライナを手に入れ、1922年にソ連の一共和国とした。1920年代には農民が自分の土地を耕すことを認め、ウクライナ語の教育や出版も奨励していた。

それが1928年に変わる。ヨシフ・スターリンは工業化を急ぐ五か年計画を始め、その資金と都市の食料を農村から取り立てようとした。翌年の末から、農民の土地と家畜を集めて集団農場(コルホーズ)にする「全面的集団化」が強行される。抵抗する者、少し豊かな者は「クラーク(富農)」の烙印を押され、家族ごと財産を奪われてシベリアやカザフスタンへ送られた。農民は集団農場に取られるくらいならと家畜を殺して食べ、各地で暴動も起きた。
集団化した農業は、すぐには上手くいかなかった。働く意欲を失った農民、減った家畜、経験の無い管理者。収穫は落ちたが、国が取り立てる穀物の量は下がらなかった。1932年の徴発の目標は、ウクライナの農村が自分たちの食べる分まで差し出さなければ達成できないものだった。
![ホロドモールによる餓死者とされる写真[要出典]。群集が集まる中、路上に放置されている。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/db/Famine_Kharkov_1933.jpg)
その年の夏から、締めつけが強まる。8月には、集団農場の財産を盗んだ者を銃殺、情状があっても10年の収容所送りとする法律ができた。畑に落ちた麦の穂を拾った飢えた子どもまでが罰せられ、「5本の穂の法」と呼ばれた。11月には、目標を果たせない村を「ブラックリスト」に載せ、食料だけでなく工業製品の供給まで止める制度が始まった。家々には捜索隊が入り、隠した穀物だけでなく、豆や芋まで取り上げていった。
1933年1月、スターリンとモロトフの名で、ウクライナと、ウクライナ系の住民が多い北カフカスのクバン地方の農民が、他の地域へ移ることを禁じる指令が出された。食べ物を求めて町や他の共和国へ向かう者は、駅や道で止められて村へ送り返された。飢えた人々は逃げ場を失った。春になると死者は急増し、村ごと絶える所も出た。人肉を食べた罪で裁かれた事例も、当局の記録に残っている。

同じ時期、ソ連は穀物の輸出を続けていた。量は前の年より減ったが、外国から機械を買う代金にするための輸出は止められなかった。飢えている地域へ穀物を回すことも、外国からの援助を受け入れることもしなかった。飢饉の存在そのものを、政府は認めなかったからである。
飢えたのはウクライナだけではない。カザフスタンでは、遊牧民を無理に定住させて家畜を取り上げた結果、1930年から33年にかけて100万人を大きく超える人が死に、人口の比率ではウクライナより重い被害が出たとされる。ロシアのヴォルガ地方や西シベリアでも多くの人が死んだ。ソ連全体の飢饉の死者は、研究者によって500万台から800万台まで幅のある見積もりがある。ただし、移動の禁止や民族政策の転換が重なったウクライナとクバンには、それとは別の狙いがあったのではないか、という議論がある。1932年12月には、ウクライナ語の教育や出版を推し進めてきた政策も打ち切られた。
外の世界はほとんど知らされなかった。1933年春、ウェールズ出身の記者ガレス・ジョーンズが現地を歩いて飢饉を報じたが、ソ連は否定し、モスクワにいた有力な西側記者の中にもそれを打ち消す記事を書く者がいた。1937年の国勢調査は人口の大きな減少を示したため結果が公表されず、調査の担当者たちは逮捕された。この年から始まる大粛清の中で、飢饉を口にすること自体が危険になった。

長く、公に語れない出来事だった。国外に逃れたウクライナ人たちは証言を集め続け、1986年にはイギリスの歴史家ロバート・コンクエストの研究が出たが、ソ連は否定を続けた。ソ連の解体の前後から公文書が開かれ、徴発の命令、移動禁止の指令、死者の統計が研究者の手に渡って、全体像が見えてくる。
いま、これをジェノサイド(集団殺害)と認める国が増えている。独立したウクライナは2006年に法律でそう定め、毎年11月の第4土曜日を追悼の日にしている。2022年のロシアのウクライナ侵攻の後には、ヨーロッパの議会で認定が相次いだ。一方で研究者の間では、ウクライナ人であるがゆえに滅ぼそうとした意図まで証明できるのか、それとも農民を屈服させる政策が民族の抑圧と重なった結果なのか、という議論が続いている。ロシアは、ソ連の多くの民族が等しく苦しんだ悲劇だとして、ウクライナを狙ったものだという見方を認めていない。

何人が死んだかの数字には幅がある。だが、それが不作による自然の飢饉ではなく、取り立てと移動の禁止という政策の結果だったことについては、今日の研究者の見方はほぼ一致している。