独ソ不可侵条約
概要
10年憎み合った二人が、一晩で組んだ。秘密議定書でポーランドとバルトとフィンランドとベッサラビアを分けた。8日後、ドイツがポーランドに入り、17日後にソ連が東から入った。世界はソ連の議定書の存在を1989年まで公式に知らなかった。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
関わった人(3)
ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · 署名させたヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 署名させたモロトフAD1890年3月9日–AD1986年11月8日 · 署名本文
1930年代、ナチス・ドイツとソ連は、互いを最大の敵と呼び合っていた。ヒトラーは共産主義を「ユダヤ人の陰謀」と罵り、東方に「生存圏」を求めることを公言していた。ソ連は各国の共産党に、社会民主主義者とも手を組んでファシズムと戦う「人民戦線」を呼びかけ、スペイン内戦では両国が敵同士の陣営を支えた。その二つの国が、1939年の夏、一晩で手を握った。
転機は1938年秋のミュンヘン会談である。イギリスとフランスは、ソ連を交えずに、チェコスロヴァキアのズデーテン地方をドイツに渡すことを認めた。ヨシフ・スターリンは、西の大国がヒトラーの矛先を東へ向けようとしていると疑った。1939年3月、ドイツはチェコスロヴァキアを解体し、続いてポーランドにダンツィヒの返還を迫った。英仏はポーランドの独立を保障し、4月からソ連とも同盟の交渉を始めた。しかし、交渉は進まなかった。ソ連軍がドイツと戦うには、ポーランドやルーマニアの領土を通らなければならない。ポーランドは、一度ソ連軍を入れれば二度と出て行かないと考え、通過を拒んだ。

5月3日、スターリンは、西側との協調を進めてきたユダヤ系の外相リトヴィノフを解任し、側近のモロトフを後任に据えた。ドイツへの合図とも受け取れる人事だった。8月、英仏の軍事使節団がようやくモスクワに着いたが、彼らは船でゆっくりやって来て、しかも条約を結ぶ全権を持っていなかった。ソ連の側はこれを本気でない証拠と見た。同じ頃、ドイツはポーランド攻撃の日取りを8月の末と決めており、ソ連が英仏の側につくことだけは避けたかった。ドイツは通商協定を結んで歩み寄り、8月20日、ヒトラーはスターリンに直接電報を送って、外相リッベントロップを受け入れるよう求めた。翌日、スターリンは23日に来てよいと答えた。
8月23日の午後、リッベントロップはモスクワに降り立ち、その夜、クレムリンで交渉が始まった。驚いたことに、席にはモロトフだけでなくスターリン本人が着いていた。表の条約は簡単なものだった。両国は10年間、互いに攻撃せず、どちらかが第三国と戦争になっても、その相手を助けない。本当の取り引きは、秘密の付属議定書にあった。東ヨーロッパを二つの「勢力圏」に分ける。フィンランド、エストニア、ラトヴィアはソ連の、リトアニアはドイツの勢力圏とする。ポーランドが「領土の再編」を受けるときは、ナレフ川、ヴィスワ川、サン川の線で分ける。ルーマニア領のベッサラビアについては、ソ連の関心を認める。リッベントロップは途中で電話をかけ、ラトヴィアをソ連側に入れてよいかヒトラーに確かめた。答えはすぐに来た。署名が終わったのは日付が変わった24日の未明だったが、文書の日付は23日とされた。

署名の後、ささやかな宴が開かれた。ドイツ側の記録によれば、スターリンは、ドイツ国民がどれほど総統を愛しているかを知っている、総統の健康に乾杯したい、と杯を挙げた。リッベントロップはのちに、古い党の同志の中にいるようだったと語った。
翌24日、条約の発表は世界を驚かせた。秘密の議定書の存在はもちろん伏せられていた。宿敵同士の握手に、各国の共産党は混乱した。昨日まで反ファシズムを叫んでいた党員たちは、これからはその戦いをやめ、英仏の「帝国主義の戦争」に反対せよと指示された。党を去る者が相次いだ。日本では、ドイツと防共協定を結んでいた平沼内閣が、欧州の情勢は複雑怪奇と声明して総辞職した。

条約から8日後の9月1日、ドイツはポーランドに攻め込み、9月3日、英仏はドイツに宣戦した。第二次世界大戦の始まりである。9月17日、ソ連軍が東からポーランドに入った。ソ連は、ポーランド国家はもはや存在しない、そこに住むウクライナ人とベラルーシ人を守るためだと説明した。ブレスト=リトフスクでは、ドイツ軍が町をソ連軍に引き渡す式典が行われ、両軍の将軍が並んで部隊を見送った。9月28日、両国は新たに境界と友好の条約を結び、リトアニアをソ連の側へ移す代わりに、ポーランドの中部をドイツの側へ移した。ポーランドは18世紀のポーランド分割以来、再び地図から消えた。
ソ連はその後、議定書で割り当てられた土地を次々に手に入れた。1939年11月にはフィンランドに攻め込んで激しい抵抗にあい(冬戦争)、1940年6月にはバルト三国に軍を入れて夏のうちに併合し、ルーマニアからベッサラビアと北ブコヴィナを奪った。占領したポーランド東部では、将校や知識人を含む2万人を超える人々が、1940年の春に銃殺された(カティンの森)。両国の通商も続き、ソ連の穀物や石油、鉱石を積んだ貨車は、1941年6月の開戦の直前まで国境を越えてドイツへ向かった。

1941年6月22日、ドイツはソ連に攻め込んだ(独ソ戦の始まり)。スターリンは、各方面から寄せられた攻撃の警告を退け続けていた。開戦の朝、ドイツ大使から宣戦を告げられたモロトフは、我々がこれに値するどんなことをしたというのか、と言ったと伝えられる。スターリンにとって条約は、戦争の準備のための時間稼ぎだったという説明がある。一方で、その時間を十分に生かせず、最後までヒトラーを信じようとしていたという批判も根強い。
秘密議定書の存在は、戦後すぐに明らかになった。押収されたドイツ外務省の文書の中に写しがあり、1948年にアメリカの国務省が公表した。しかしソ連は、それを偽造だとして否定し続けた。ソ連の中で事情が変わったのは、ゴルバチョフの時代である。1989年8月23日、条約から50年の日、エストニアのタリンからラトヴィアのリガを経てリトアニアのヴィリニュスまで、200万人ほどの人々が手をつないで600キロを超える人の鎖を作った(バルトの道)。その年の12月、ソ連の人民代議員大会は議定書の存在を認め、それが署名の時から無効であったと宣言した。原本がロシアの文書館から公にされたのは、ソ連の崩壊後の1992年である。いま8月23日は、ヨーロッパ連合で全体主義の犠牲者を追悼する日とされている。一方ロシアでは、この条約を英仏の宥和政策に対するやむを得ない選択として描く見方が再び強まっており、評価をめぐる争いは終わっていない。