人物

ヨシフ・スターリン

Joseph Stalin
AD1878年12月18日 – AD1953年3月5日(享年74)
ソビエト連邦重要度 5

概要

30年ソ連を握った。工業化を急いだ代償に数百万人が餓死し、粛清でさらに多くが殺された。

関わったできごと(7)

ホロドモール1932年 · 命令大粛清1936年 · 命令独ソ不可侵条約AD1939年8月23日 · 署名させたカティンの森AD1940年4月 · 命じたヤルタ会談AD1945年2月4日 · ソポツダム会談AD1945年7月17日 · ソスターリンの死AD1953年3月5日 · 死んだ

本文

1878年12月18日、ロシア帝国領グルジアの町ゴリで、ヨシフ・ジュガシヴィリとして生まれた。のちに公式の誕生日は1879年12月21日とされ、本人もそちらを使ったが、教会の記録は1878年を示している。父は靴職人で、酒に溺れて家族に暴力をふるった。幼い頃に天然痘にかかって顔にあばたが残り、左腕も不自由だった。

ヨシフ・スターリンの肖像
ヨシフ・スターリンの肖像Wikimedia Commons Ivan Shagin · Public domain

母は息子を聖職者にしようとし、トビリシの神学校に入れた。だが学校の厳しい監視の中で、彼は禁じられた本を読みあさり、マルクス主義の運動に引き込まれていく。1899年に神学校を去り、地下の革命運動に身を投じた。グルジアでは「コバ」と名乗り、ストライキの組織、資金を得るための銀行の現金輸送の襲撃などに関わった。逮捕と流刑と脱走を何度もくり返している。

「スターリン」は「鋼鉄の人」を意味する筆名で、1912年から13年頃に使い始めた。同じ頃、レーニンに認められてボリシェヴィキの中央委員に加えられ、民族問題についての論文を書いている。1913年から1917年まではシベリアの奥地に流されていた。

1917年のロシア革命の後、革命政府で民族問題を担当する人民委員になった。ロシア内戦ではヴォルガ川沿いのツァリーツィンの防衛を指揮し、軍事を担うトロツキーと激しく対立した。この町はのちにスターリングラードと名を変える。

ロシア革命に関わる図版:Митинг на Невском проспекте (1917)
ロシア革命Wikimedia Commons unknown; photo retake by George Shuklin · Public domain

1922年、党の書記長に就いた。当初は事務的とされた地位だったが、全国の党組織の人事を握れる立場だった。彼はここで、自分に忠実な者を各地の要職に据えていった。病床のレーニンは、彼は粗暴にすぎるとして書記長から外すよう書き残したが、その文書は公にされなかった。

レーニンの死後、党内の争いを制した。最初はジノヴィエフ、カーメネフと組んで、最大の競争相手だったトロツキーを追い落とした。次にブハーリンと組んでジノヴィエフとカーメネフを退け、最後にブハーリンを排除した。トロツキーは1929年に国外へ追放され、1940年、亡命先のメキシコで彼の放った刺客に殺される。

スターリンの父ベサリオン・ジュガシヴィリ
スターリンの父ベサリオン・ジュガシヴィリWikimedia Commons Official photographer of Gori. Appears on his grave marker. · Public domain

1928年、第一次五か年計画で、工業化を急いだ。西側に遅れたままでは攻め滅ぼされる、というのが理由だった。製鉄所、発電所、運河が突貫で作られ、新しい工業都市が生まれた。その資金と労働力を得るために、農村が犠牲にされた。

農民の土地と家畜を取り上げて集団農場にまとめる集団化が強行され、抵抗した農民や、豊かだとみなされた農民は「クラーク」として財産を奪われ、処刑され、あるいは家族ごと遠隔地へ送られた。集団化で農業は混乱したが、穀物の徴発は続けられ、輸出もされた。1932年から33年にかけて、ウクライナ、カザフスタン、ヴォルガ流域などで数百万人が餓死した(ホロドモール)。推計には幅があり、全体で500万人から800万人前後とする研究が多い。同じ1932年、妻のナジェージダが自ら命を絶っている。

ホロドモールに関わる図版:HolodomorKharkiv 1933 Wienerberger
ホロドモールWikimedia Commons Alexander Wienerberger · Public domain

1934年、党の有力者キーロフが暗殺されると、それを機に弾圧が広がった。1936年から38年にかけての大粛清で、党と軍の幹部が次々に逮捕され、公開の裁判で身に覚えのない罪を自白させられて処刑された。革命の古参の多くが消え、赤軍は元帥5人のうち3人、高級将校の多くを失った。秘密警察の記録だけでも、1937年から38年の2年間で約68万人が銃殺されている。強制労働収容所の網、のちにグラーグと呼ばれるものが全土に広がった。

その軍の弱体化が、独ソ戦の初期の敗北につながる。1939年、彼はヒトラーと独ソ不可侵条約を結び、ポーランドを分け合い、バルト三国を併合した。ドイツの攻撃が近いという警告をいくつも受けながら、信じようとしなかった。1941年6月22日、ドイツ軍が攻め込むと(独ソ戦の始まり)、ソ連軍は数か月で数百万人が戦死し、あるいは捕虜になった。

それでも、独ソ戦に勝った。工場を東のウラル山脈の向こうへ移し、膨大な犠牲を払って反撃に転じた。1942年から43年のスターリングラードの戦いが転機となり、1945年にソ連軍はベルリンに入った。ソ連の死者は兵と民間人を合わせて2700万人前後と推計されている。長男ヤコフはドイツ軍の捕虜になったが、ドイツの元帥との交換を持ちかけられた彼はそれを拒んだと伝えられ、ヤコフは収容所で死んだ。

スターリングラードの戦いに関わる図版:Расчет советской 76,2-мм пушки ЗиС-3 ведет огонь в Сталинграде. Ноябрь 1942 г
スターリングラードの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ヤルタ会談などでアメリカ、イギリスの首脳と戦後の秩序を話し合い、戦後、東欧を勢力圏に置いた。ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアなどに共産党の政権が作られ、冷戦が始まる。1949年には原爆の実験に成功した。国内では再び統制が強まり、晩年には医師たちが要人の暗殺を企てたという陰謀事件が仕立てられ、ユダヤ系の医師が多数逮捕された。

1953年3月1日、モスクワ郊外の別荘で脳出血で倒れた。部屋に入ることを恐れた警備の者たちが異変に気づくのが遅れ、医師が呼ばれたのは半日以上たってからだったとされる。3月5日に死んだ。74歳だった。葬儀には群衆が押し寄せ、将棋倒しで多くの死者が出た。

スターリンの母エカテリネ・ジュガシヴィリ
スターリンの母エカテリネ・ジュガシヴィリWikimedia Commons Gori photographer · Public domain

死後3年、ニキータ・フルシチョフが党大会の非公開の会議で、その個人崇拝と犯罪を批判する秘密報告を行った(フルシチョフの秘密報告)。遺体はレーニン廟から運び出され、スターリングラードはヴォルゴグラードと改められた。いまロシアでの評価は、時期によって大きく揺れている。ソ連崩壊後しばらくは否定的な見方が強かったが、近年の世論調査では、戦争に勝った強い指導者として肯定的に見る人の割合が高まっている。

動画(1)

154 ソヴィエト政権 世界史20話プロジェクト第16話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第154講「ソヴィエト政権」
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1878年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →