できごと

南京事件

Nanjing Massacre
1937年 – 1938年
期間を持つできごと重要度 5
南京事件に関わる図版:Nanking bodies 1937
Nanking bodies 1937 Wikimedia Commons Originally Moriyasu Murase, 村瀬守保 · Public domain

概要

日本軍が占領した南京で、多数の捕虜と市民が殺された。犠牲者の数は資料によって大きく違い、いまも論争が続く。

場所

南京
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省

本文

1937年12月13日、日本軍が中華民国の首都南京を占領した。その前後の数週間から数か月のあいだに、捕虜となった中国兵や、兵と疑われた男たち、そして多くの民間人が殺された。略奪と放火、女性への暴行も広く起きた。日本では「南京事件」、中国では「南京大虐殺」と呼ばれる。

発端は、この年の7月に北京郊外で起きた盧溝橋事件だった。局地の衝突は全面的な戦争に広がり(日中戦争)、8月には上海で大きな戦いが始まる。国民政府の蒋介石は精鋭を投入し、市街戦は3か月に及んだ。日本軍は予想を超える損害を出し、11月にようやく上海の中国軍を退けた。

盧溝橋事件に関わる図版:Marco Polo Bridge air view
盧溝橋事件Wikimedia Commons Sweeper tamonten ( talk ) · Public domain

本来、作戦は上海の周辺までのはずだった。だが現地の軍は、敗走する中国軍を追って、東京の参謀本部の方針を越えて西へ進み始めた。首都を落とせば戦争が終わる、という見込みもあった。参謀本部は12月1日になってこれを追認し、南京攻略の命令を出す。急な追撃に補給は追いつかず、部隊は食料を進む先の村々から取り立てながら進んだ。南京へ向かう途中の町や村で、すでに略奪や殺害が起きていたことが、日本兵自身の日記にも記されている。

国民政府は11月のうちに首都を奥地へ移すことを決め、南京の守りは唐生智という将軍に任された。12月に入ると日本軍は南京を囲み、城壁に迫った。12日、中国軍の防衛は崩れ、撤退の命令は混乱の中で十分に伝わらなかった。城の北の長江の岸には逃げ場を失った兵と市民が殺到し、多くの兵は軍服を脱ぎ捨てて市民の中にまぎれた。13日、日本軍が城内に入った。

百人斬り競争を報じる1937年12月13日の東京日日新聞。写真右は野田毅少尉 、左は向井敏明少尉(常州にて佐藤振壽撮影)
百人斬り競争を報じる1937年12月13日の東京日日新聞。写真右は野田毅少尉 、左は向井敏明少尉(常州にて佐藤振壽撮影)Wikimedia Commons Shinju Sato (佐藤振壽) · Public domain

占領後、日本軍は市民の中に隠れた中国兵の「掃討」を行った。兵と疑われた若い男たちが連れ出され、まとめて殺された。投降した兵の多くも、捕虜として扱われずに処刑された。国際法上、正規の兵が降伏すれば捕虜として保護されなければならないが、日本の軍の中には、捕虜は取らない方針を記した指揮官の日記も残っている。兵と市民の区別は十分になされず、市内と周辺の農村で民間人も犠牲になった。

その現場を見ていた外国人がいた。南京に残った20人あまりの欧米人が、市内の一角に「安全区」を設け、戦火を逃れた20万人ほどの市民を受け入れていた。委員長は、ドイツの電機会社シーメンスの駐在員で、ナチ党員でもあったジョン・ラーベである。日本と同盟関係に近づいていたドイツの国籍を盾に、ラーベは日本軍に抗議を繰り返し、日々見聞きしたことを日記に書いた。アメリカ人の宣教師や教師、医師たちも日記や手紙を残し、牧師ジョン・マギーは負傷者の姿をフィルムに収めた。

1935年の朝香宮鳩彦王
1935年の朝香宮鳩彦王Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

同時代の記録は、ほかにもある。陥落直後まで市内にいたアメリカの新聞記者たちは、南京を離れてすぐに捕虜の大量処刑などを報じた。日本軍の兵士や将校の従軍日記、一部の部隊の戦闘詳報、日本の外交官の日記や外務省に届いた報告にも、捕虜の処刑や軍の規律の乱れが書かれている。日本国内では報道が統制されていたため、一般の人々がこの出来事を知ったのは、多くが戦後になってからだった。

戦後、この出来事は裁判で裁かれた。東京の極東国際軍事裁判(東京裁判)は、占領後の6週間に殺された民間人と捕虜を20万人以上と認定し、南京攻略を指揮した松井石根を、部下の残虐行為を防がなかった責任で死刑とした。南京で開かれた中国の軍事法廷は、犠牲者を30万人以上とした。

東京裁判に関わる図版:IMTFE court chamber 2
東京裁判Wikimedia Commons The Occupation administration · Public domain

犠牲者の数については、資料と立場によって差が大きい。中国政府は30万人以上としている。日本の研究者の推計は、数万から20万前後までの幅に分かれ、それより少ないとする主張もある。数え方で結果が変わる。期間を陥落後の何週間とするのか、2月や3月まで含めるのか。範囲を城壁の内側に限るのか、周辺の農村の県まで含めるのか。戦闘中の死者と、捕虜や投降兵の処刑をどう分けるのか。残された埋葬の記録をどこまで信頼するのか。一つひとつの選び方が、数字を何倍にも変える。

2006年から始まった日中の政府による歴史共同研究でも、数は一致しなかった。日本側の研究者は、20万人を上限として4万人、2万人などさまざまな推計がある、と報告した。日本政府は、南京入城の後に非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できないとし、被害者の具体的な人数については諸説あってどれが正しいか認定することは困難だ、という立場をとっている。

南京城壁の門を攻撃する日本兵(12月12日)
南京城壁の門を攻撃する日本兵(12月12日)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

日本の国内では、1970年代から論争が続いてきた。新聞記者による中国での聞き取りの連載をきっかけに、虐殺はまぼろしだと主張する人々と、それに反論する研究者のあいだで、史料の読み方をめぐって激しい議論が交わされた。旧陸軍の将校らの親睦団体が、元兵士の証言と記録を集めて独自の戦史をまとめたときには、捕虜や市民の不法な殺害があったことを認め、その会報に謝罪の言葉を載せるに至った。

数の議論が、起きたこと自体の議論にすり替わることがある。何人だったかが確定していないことと、何も起きなかったことは、まったく別のことである。殺害があったこと自体は、日本兵自身の日記、外国人の記録、日本の外交官の記録という、立場の異なる複数の同時代の記録が一致して示している。

中国人男性の武器所持検査をする日本軍憲兵
中国人男性の武器所持検査をする日本軍憲兵Wikimedia Commons Sweeper tamonten ( talk ) · Public domain

中国では、1985年に南京に記念館が建てられ、2014年からは12月13日が国家の追悼の日とされた。この出来事は、いまも日本と中国のあいだで、歴史の記憶をめぐる最も重い問題の一つであり続けている。

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