ノモンハン事件

概要
関東軍が中央の意向を無視して始め、ソ連の機械化部隊に敗れた。負けを負けとして扱わず、参加した参謀が処罰されずに次の作戦を立てていく。
場所
47.73°N 118.60°E · モンゴル国・ドルノド県と中国・内モンゴルの境
本文
1930年代の終わり、日本が作った満洲国と、ソ連の強い影響下にあるモンゴル人民共和国は、長い国境で向き合っていた。その境目は、草原の上でははっきりしていなかった。満洲国はハルハ河を境と主張し、モンゴルはその東、20キロほどの線を境と主張した。あいだに挟まれた草原は遊牧の人びとが家畜を追う土地で、ノモンハンはその一角の地名になる。
満洲国の防衛を担った日本の関東軍は、満洲事変以来、東京の指示を待たずに動く傾向を強めていた。1939年4月、関東軍は、国境の紛争では越境してでも敵を撃滅する、という方針を各部隊に示した。作戦参謀の辻政信が起案したものとされる。

1939年5月、ハルハ河の東の草原で、モンゴル軍の騎兵と満洲国軍がぶつかった。関東軍は現地の第23師団を出動させたが、送り込んだ部隊がソ連とモンゴルの軍に包囲され、全滅に近い損害を受けた。関東軍はこれを放っておけないと考え、兵力を大きく増やした。6月、関東軍は、東京の参謀本部が事態の拡大を望んでいないことを知りながら、モンゴルの奥にあるソ連軍の飛行場を爆撃した。参謀本部は関東軍を叱責したが、現地の行動は止まらなかった。
7月はじめ、日本軍はハルハ河を渡ってモンゴル側へ攻め込み、同時に戦車部隊で東岸のソ連軍を攻撃した。だが、ソ連軍の戦車と大砲の数は予想をはるかに上回っていた。渡河した部隊は引き返し、戦車部隊も大きな損害を出した。その後、戦線は膠着し、日本軍は夜襲と陣地戦を繰り返したが、ソ連軍の砲撃に押されていった。

ソ連の側では、のちに第二次世界大戦で名を上げるジューコフが指揮をとっていた。ジューコフは、遠い鉄道の終点から草原の戦場まで、大量のトラックで物資を運び、戦車と航空機と大砲を密かに集めた。8月20日、ソ連軍は総攻撃に出た。戦車と機械化された部隊が南北から日本軍の両翼を回り込み、包囲した。火力も機動力も劣る日本の歩兵は、陣地で持ちこたえようとして次々に壊滅した。第23師団は、ほぼ全滅に近い損害を受けた。
戦いの終わり方を決めたのは、ヨーロッパだった。8月23日、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結んだ。ソ連を相手にドイツとの同盟を探っていた日本にとっては足もとを崩される出来事で、平沼騏一郎の内閣は、欧州の情勢は複雑怪奇だという言葉を残して総辞職した。9月1日、ドイツがポーランドに攻め込み、ヨーロッパで戦争が始まる。ソ連は東の戦いを早く終わらせたかった。9月15日、モスクワで停戦が合意され、境界はおおむねモンゴルの主張に近い線で落ち着いた。ソ連軍が東からポーランドに攻め込んだのは、その2日後になる。

日本側の死傷者は、出動したおよそ6万人のうち約2万人とされる。ソ連側の損害は長く少なく伝えられてきたが、ソ連の崩壊後に公開された資料で、日本側と同じ程度か、それを上回っていたことが分かった。それでも、戦場の結果は明らかに日本の敗北だった。
日本の軍の内部で、この敗北は正面から検討されなかった。関東軍の司令官や参謀長は更迭され、前線で生き残った部隊長の中には、陣地を捨てて退いた責任を問われ、自決を強いられた者もいた。一方で、作戦を主導した参謀の辻政信や服部卓四郎は、いったん左遷されたものの、まもなく中央の作戦の中枢に戻り、2年後に始まる太平洋戦争で、南方の作戦やガダルカナルの戦いに深く関わることになる。陸軍が設けた研究の委員会は、ソ連軍の火力と機械化の圧倒的な差を認めながらも、日本軍の精神力の優位をさらに伸ばすべきだという方向へ議論を置き換えた。

この敗北は、日本の進路にも影響したとされる。ソ連と北で戦う構えは弱まり、資源を求めて南へ進む議論が強まっていく。その先に、真珠湾攻撃がある。
『失敗の本質』は、日本軍の組織の失敗を論じる事例研究の最初にこの事件を置いた(物語「『失敗の本質』で読む日本軍」)。目的があいまいなまま現地が独走し、中央はそれを止められず、負けた後には失敗を正しく認めて教訓を引き出すことができなかった。負けを負けとして扱えない組織は、そこから何も学べない、という読み方になる。