概要
1928年8月27日、パリで、15か国の代表が、国の政策の手段としての戦争を放棄し、争いは平和的な手段でだけ解くと約束する条約に署名した。フランスの外相ブリアンが持ちかけた米仏の約束を、アメリカの国務長官ケロッグが多くの国に広げたもので、のちに六十を超える国が加わる。日本も加わった。違反した国を罰する仕組みはなく、自衛のための戦いは認められると解釈された。各国は戦争を「事変」と呼び替えて戦い続け、条約は十年あまりで無力をさらけ出した。だが戦争を違法とする考えは残り、戦後の国際連合の憲章や、侵略を裁いた戦犯の裁判の土台になった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
第一次世界大戦の惨禍のあと、戦争そのものを違法にしようという運動が、とくにアメリカで盛んになった。国際連盟の発足の規約も、加盟国が戦争に訴える前に紛争を連盟にかけることを求めたが、戦争を全面的に禁じてはいなかった。
1927年、フランスの外相アリスティード・ブリアンは、アメリカの参戦10周年に合わせて、米仏の間で互いに戦争をしないと約束しようと持ちかけた。フランスには、アメリカを自国の安全に引き込みたいという思惑があった。アメリカの国務長官フランク・ケロッグは、二国だけの約束に縛られることを嫌い、すべての国が加われる多国間の条約にしようと返した。
1928年8月27日、パリのフランス外務省で、アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本など15か国の代表が条約に署名した。条約は短く、主な条文は二つしかない。締約国は、国際紛争を解くために戦争に訴えることを非とし、国の政策の手段としての戦争を放棄する。そして、すべての紛争を平和的な手段によってのみ解く。のちに60を超える国が加わった。
だが条約には、違反した国を罰する仕組みが無かった。署名した国々は、自衛のための戦いは禁じられていないと解釈し、何が自衛かを決めるのは自分たちだとした。日本では、条文の「人民の名において」という言葉が天皇の大権を侵すとして問題にされ、批准のときに日本には適用しないと宣言している。1931年、日本は満洲で軍事行動を起こし(満洲事変)、宣戦布告をせず「事変」と呼んだ。イタリアのエチオピア侵攻、ドイツのポーランド侵攻と、条約は戦争を止められなかった。
それでも、戦争を違法とする考えは消えなかった。第二次世界大戦のあと、ニュルンベルク裁判と東京裁判は、不戦条約に反して侵略戦争を計画し実行したことを「平和に対する罪」として裁いた。国際連合の憲章は、武力による威嚇と武力の行使を原則として禁じた。日本国憲法の9条の「国権の発動たる戦争」を放棄するという文言にも、不戦条約の言葉が響いている(日本国憲法)。