満洲事変

概要
関東軍が自ら鉄道を爆破し、それを口実に満洲を占領した。日本が国際連盟を脱退する契機になる。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(1)
張作霖AD1875年3月19日–AD1928年6月4日 · 3年前に殺された本文
1931年9月18日の夜10時過ぎ、奉天(いまの瀋陽)の北にある柳条湖の近くで、南満洲鉄道の線路が爆破された。爆破は小さく、その直後に列車が何事もなく通過したほどだった。だが日本の関東軍は、これを中国軍の仕業だとして、ただちに近くの中国軍の兵営・北大営を攻撃し、翌朝までに奉天の街を占領した。爆破を仕掛けたのは、関東軍自身だった。
日本は日露戦争の後、遼東半島の先の関東州を租借し、長春から旅順までの鉄道とその沿線を手に入れていた。それを守るために置かれたのが関東軍である。満洲を実際に治めていたのは、軍閥の張作霖だった。1928年、関東軍の一部の将校は、言うことを聞かなくなった張作霖を、列車ごと爆殺した。跡を継いだ息子の張学良は、かえって国民政府の側につき、満洲に国民党の旗を掲げた。満鉄に並行する鉄道を敷く計画も進め、日本の権益は揺らいでいた。
日本の国内では、1929年の世界恐慌に続く昭和恐慌で、農村が深刻な不況に陥っていた。「満蒙は日本の生命線」という言葉が広まり、軍の中には、満洲を力で切り取ることで行き詰まりを打開しようとする考えが強まった。計画を立てたのは、関東軍の作戦参謀・石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎らである。石原は、いずれ来るアメリカとの決戦に備え、満洲の資源を押さえるべきだと考えていた。
東京の若槻礼次郎内閣は、事件を知ると戦線を広げない方針を決めた。しかし現地の軍はこれに従わなかった。21日には、朝鮮に駐屯していた軍の司令官が、天皇の命令を待たずに兵を国境の向こうへ送った。政府は後からその費用を認め、既成事実が追認された。関東軍は北のチチハル、西の錦州、そして翌年2月にはハルビンを占領する。張学良の軍は、ほとんど抵抗せずに退いた。抵抗するなという命令が誰から出たのかについては、蔣介石の指示とする説と、張学良自身の判断とする説がある。

1932年3月1日、関東軍の主導で「満洲国」の建国が宣言された。元首の執政に据えられたのは、清の最後の皇帝・溥儀である。1934年に溥儀は皇帝となる。国の形は独立国だったが、重要な役職には日本人が就き、実権は関東軍が握っていた。
国際連盟(国際連盟の発足)は、中国の訴えを受けて、イギリスのリットン卿を長とする調査団を送った。1932年10月に公表された報告書は、日本が満洲に持つ特別な権益は認め、満洲を国際的な管理の下で自治の地域とする妥協案を示した。そのうえで、満洲国は住民の自発的な独立運動によって生まれたものではない、と結論した。日本はこの報告が出る前の9月に、満洲国を独自に承認していた。

1933年2月24日、連盟の総会は報告書に沿った勧告を、賛成42、反対1で採択した。反対の1票は日本で、シャム(いまのタイ)が棄権した。日本の代表・松岡洋右は議場から退き、翌月、日本は連盟からの脱退を通告した。
満洲事変は、日本の政治そのものを変えた。現地の軍が政府の方針に逆らって戦争を始め、それが成功して国民の喝采を浴びた。1932年には首相の犬養毅が海軍の青年将校らに殺される(五・一五事件)。犬養は満洲国の承認に慎重だった。以後、軍の独走を抑える力は弱まり、政党内閣はこれで途絶えた。
中国にとって、9月18日は屈辱の日として記憶されている。いまも毎年この日には、瀋陽でサイレンが鳴らされる。日中の対立は満洲から華北へ広がり、1937年の盧溝橋事件(盧溝橋事件)から全面的な戦争へと続く。
国際連盟にとっても、満洲事変は大国による侵略に対して集団安全保障が働くかどうかを試す、最初の大きな試験だった。勧告は出したが、日本を止める手段は無かった。その4年後の1935年、イタリアがエチオピアに攻め込み(イタリアのエチオピア侵攻)、連盟の経済制裁はまたも十分に働かなかった。