できごと

盗まれた世代

The Stolen Generations
1910年 – 1970年
期間を持つできごと重要度 5
大英帝国西オーストラリア(イギリス領)クイーンズランド(イギリス領)オランダ領東インドノーザンテリトリー(イギリス領)南オーストラリア(イギリス領)ニューサウスウェールズ(イギリス領)パプアニューギニアM?oriVictoria (UK)1910年シドニー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている1910年の版図を描いています(10勢力)。

概要

先住民の子どもが、同化のために家族から引き離され施設や里親に預けられた。数は分かっていないが、10人に1人から3人に1人と推定される。2008年に首相が謝罪した。

場所

シドニー
-33.87°N 151.21°E · オーストラリア・ニューサウスウェールズ州

本文

20世紀の初めから1970年頃まで、オーストラリアでは、先住民の子どもたちが役所や警察の手で親元から連れ去られ、施設や白人の家庭で育てられた。いまその子どもたちは「盗まれた世代」と呼ばれている。何人が連れ去られたのかは分かっていない。記録が乏しく、失われたものも多いためである。1997年の政府の調査は、この期間に先住民の子どもの10人に1人から3人に1人が家族から引き離されたと推計した。ほとんどすべての先住民の家族が、何らかの形でこのことに関わっている計算になる。

1788年、イギリスの船団がシドニー近くのボタニー湾に着き(第一船団のボタニー湾到着)、入植が始まった。それから百数十年のあいだに、先住民の人々は土地を奪われ、持ち込まれた病気と暴力で数を大きく減らした。19世紀の末、白人の多くは、先住民はやがて自然に消えていく「滅びゆく人種」だと考えていた。各植民地は「保護」の名のもとに法律を作り、先住民を指定の保護区や伝道所に住まわせ、移動や結婚、仕事、賃金の受け取りまでを役人の管理下に置いた。1901年にオーストラリア連邦の成立が成ると、新しい国は白人の国を目指す政策をとった(白豪主義)。

オーストラリア連邦の成立に関わる図版:Town Hall, Sydney, Inauguration of Australian Commonwealth
オーストラリア連邦の成立Wikimedia Commons W. A. Gullick · Public domain

ところが、先住民は消えなかった。そして白人と先住民の両方を親に持つ子どもが増えていった。役人たちが目をつけたのは、こうした子どもたちだった。肌の色の薄い子を先住民の共同体から引き離し、白人社会の中で白人のように育てれば、何世代かのちには先住民の血は「薄まって」消える。西オーストラリアの先住民保護の責任者だったネヴィルらは、こうした考えをはっきりと公の場で語り、文書に残している。1937年、各州の先住民行政の責任者たちが首都キャンベラに集まった会議では、混血の先住民を白人社会に吸収することが、国全体の方針として確認された。

多くの州では、先住民保護の責任者が、先住民の子どもの法的な後見人とされた。親の同意も、裁判所の判断もいらなかった。子どもは「放置されている」「危険にさらされている」とされて連れ出されたが、実際には、ただ先住民であることが理由だった例が多い。警官が突然やって来て子どもをトラックに乗せたという証言や、母親が子どもを茂みに隠し、顔に炭を塗って肌を黒く見せたという証言が残っている。

A・O・ネビル著『オーストラリアの有色少数者』の同化政策の図
A・O・ネビル著『オーストラリアの有色少数者』の同化政策の図Wikimedia Commons A.O. Neville · CC0

連れ去られた子どもは、教会や国が運営する施設や、白人の里親のもとに送られた。施設では、自分たちの言葉を話すことを禁じられ、名前を変えられ、親は死んだ、あるいはお前を捨てたと教えられた子どもも少なくない。親には子どもの行き先が知らされないことが多く、手紙は届けられなかった。施設を出た子どもたちの多くは、少年なら牧場の労働者、少女なら白人の家の住み込みの使用人として送り出された。賃金は役所が預かり、本人の手に渡らないこともあった。施設や働き先で、暴力や性的な虐待を受けた例も数多く報告されている。

1931年、西オーストラリアの施設に連れて来られた3人の少女が、そこを抜け出し、ウサギよけの長い柵に沿って、千キロを優に超える道のりを歩いた。一人は途中で連れ戻されたが、二人は故郷にたどり着いた。その一人の娘が後に母の体験を本にし、2002年には『裸足の1500マイル』として映画化された。だが、多くの子どもにとって、家に帰る道はなかった。

シドニーの衛星写真
シドニーの衛星写真Wikimedia Commons NASA · Public domain

こうした政策は、1960年代以降、少しずつ改められていった。1967年の1967年の国民投票(オーストラリア)で、先住民を国の人口に数え、連邦政府が先住民のための法律を作れるように憲法が改められた。1970年代には、子どもを家族から引き離すことを前提とした法律はほぼなくなった。だが、連れ去られた人々は大人になってから、自分が誰で、どこから来たのかを探さなければならなかった。家族を見つけられた人もいれば、見つけたときには親が亡くなっていた人もいた。自分の言葉も、土地とのつながりも、子育ての手本も失った経験は、次の世代にまで影を落としたと、多くの研究と証言が指摘している。

1995年、連邦政府は人権の機関に全国調査を命じた。調査団は500人を超える当事者から話を聞き、1997年に報告書『彼らを家に連れ帰る』を出した。報告書は、子どもの強制的な引き離しは重大な人権侵害であり、ある集団を消し去る意図をもって子どもを移すことを含む国際法上のジェノサイドの定義に当てはまりうる、とまで述べた。そして、政府による謝罪と補償を勧めた。

シドニーの古地図(1789年)
シドニーの古地図(1789年)Wikimedia Commons Public domain

だが、当時の首相ハワードは、今の世代が過去の世代の行いについて謝罪すべきではないとして、公式の謝罪を拒んだ。市民の側では、1998年から毎年5月26日を「ナショナル・ソーリー・デー(国民の謝罪の日)」として、各地で集会が開かれるようになった。2000年には、シドニーのハーバーブリッジを、和解を求める25万人とも言われる人々が歩いて渡った。

2008年2月13日、政権交代で首相になったケヴィン・ラッドは、新しい議会の最初の仕事として、盗まれた世代への謝罪を行った。彼は議場で、家族と共同体を引き裂いた法律と政策について、「申し訳ない」という言葉を三度繰り返した。議場の傍聴席には当事者たちが招かれ、国会の前の芝生や、全国の広場や学校で、大きな画面に映された演説を多くの人々が見守った。涙を流す人々の姿が、テレビで全国に流れた。

謝罪のあとも、課題は残っている。補償の制度は州ごとに作られ、タスマニア州が2006年に最初の制度を設けたのに続いて、いくつかの州が独自の制度を設けた。連邦政府が自らの直轄だった地域の生存者に補償を始めたのは2021年のことで、多くの当事者はすでに亡くなっていた。そして今も、先住民の子どもが行政の保護の対象となって家族から離される割合は、そうでない子どもに比べて大きく高い。

同じような政策は、オーストラリアだけのものではなかった。カナダでは、先住民の子どもを寄宿学校に集めて文化を奪う制度が、20世紀の後半まで続いた(先住民寄宿学校)。「保護」と「文明化」の名のもとで、子どもを家族から引き離すことが、ある民族を消す方法として使われた。盗まれた世代の物語は、善意を装った政策が何を壊しうるのかを伝えている。

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