ヴェルサイユ条約

概要
敗戦国に過酷な賠償を課した。この不満が20年後の戦争の土壌になる。
場所
48.80°N 2.12°E · フランス
本文
1919年6月28日、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の鏡の間で、ドイツの代表2人が講和条約に署名した。48年前の1871年、プロイセン王がドイツ皇帝として即位を宣言した、あの広間である。日付は、ちょうど5年前にサラエヴォでオーストリアの皇位継承者が暗殺された日と同じだった。第一次世界大戦は、ここで正式に終わった。
講和会議は1月にパリで開かれた。中心にいたのは、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン、イギリス首相ロイド・ジョージ、フランス首相クレマンソー、イタリア首相オルランドの4人である。ウィルソンは前年に十四か条の平和原則を掲げ、民族自決と、国際的な平和の機構を説いていた。だが国土を戦場にされ、130万を超える兵士を失ったフランスにとって、何よりの関心は、ドイツが二度と攻めて来られないようにすることだった。日本も五大国の一つとして代表を送り、国際連盟の規約に人種平等をうたう条文を入れるよう提案したが、採用されなかった。

敗れたドイツは、会議に呼ばれなかった。5月に条件を示され、書面で反論することは許されたが、修正はわずかだった。拒めば戦争を再開すると迫られ、ドイツの国民議会は署名を受け入れた。ドイツではこの条約を、交渉によらず押しつけられた講和という意味で「ディクタート(命令)」と呼んだ。
条約の中身は厳しかった。アルザス・ロレーヌをフランスに返し、東ではポーランドに領土を割いて、バルト海へ抜ける回廊を作った。ダンツィヒは国際連盟の管理する自由市になり、石炭の産地ザールは15年間連盟の管理下に置かれた。海外の植民地はすべて取り上げられ、その一部、赤道より北の太平洋の島々は日本の委任統治領になった。陸軍は10万人に制限され、空軍と潜水艦と参謀本部は禁じられ、ライン川の西岸は連合国が占領し、非武装の地帯とされた。オーストリアとの合併も禁じられた。条約の第1編には、国際連盟の発足の規約が置かれていた。

最も強い怒りを呼んだのは、第231条だった。戦争による連合国の損害について、ドイツとその同盟国が責任を負う、と定めた条文である。もともとは賠償の法的な根拠として書かれたものだが、ドイツではこれが、戦争の罪をドイツだけに負わせる条項として受け止められた。
賠償の総額は、条約では決まらなかった。1921年、連合国は1320億金マルクと定める。数字だけを見れば途方もない額だが、実際に支払いを求められたのはその一部で、残りは初めから回収を当てにしていない形だけのものだったとする研究もある。この額が本当に払えないものだったのか、ドイツが払う気を持たなかったのかは、今も歴史家の間で論争が続いている。

イギリスの財務省代表として会議に加わっていた若い経済学者ジョン・メイナード・ケインズは、条約の内容に絶望して6月に辞任し、その年のうちに『平和の経済的帰結』を出版した。ドイツから取り立てようとする賠償は払い得ない額であり、ドイツ経済を締め上げればヨーロッパ全体の復興が損なわれる、と論じたこの本は、各国でよく売れ、条約は不当だという見方を英米に広めた。のちに、ケインズの議論は条約の厳しさを誇張し、ドイツの抵抗を後押ししたと批判する論者も現れた。
実際の歴史は、混乱の連続になった。1923年、賠償の支払いが滞ったとしてフランスとベルギーがルール地方を占領すると、ドイツ政府は住民に生産の停止で抵抗させ、その費用を紙幣の増刷でまかなった。ドイツのハイパーインフレが起き、年の暮れには1ドルが4兆マルクを超えた。賠償の額と払い方は、アメリカの資金を仲立ちにして何度も組み直され、1932年には事実上打ち切られた。

条約を作った側も一枚岩ではなかった。アメリカの上院は条約の批准を拒み、提唱国のアメリカは連盟に加わらなかった。イタリアは期待した領土を得られず、不満を抱えた。中国は、ドイツが山東半島に持っていた権益が日本に引き渡されることに抗議して、署名を拒否した。
ドイツの国内では、軍は戦場で負けたのではなく、国内の裏切り者に背後から刺されたのだという伝説が広まった。条約に署名した共和国の政治家たちは「11月の犯罪者」と罵られ、暗殺された者もいる。ヒトラーは、この条約の破棄を掲げて支持を集め、ナチスの政権掌握ののち、再軍備やラインラントへの進駐で条約を一つずつ踏みにじっていった。

1940年6月、ドイツはフランスを破ると、1918年の休戦協定が結ばれたコンピエーニュの森に、そのときと同じ鉄道車両を運び込み、そこでフランスに休戦協定を結ばせた。ヴェルサイユの屈辱を晴らす演出だった。条約がこの戦争の唯一の原因だったわけではない。それでも、勝者が敗者に求めたものと、敗者が受け入れたと感じたものの隔たりが、第二次世界大戦の土壌の一つになったことは、多くの歴史家が認めている。賠償のために発行された債券の利払いが最終的に終わったのは、ドイツ統一から20年後の2010年のことだった。