できごと

残留孤児の訪日調査

Japanese orphans left in China
AD1981年3月2日
重要度 4
ソビエト連邦中国モンゴルチベットビルマ大英帝国タイ日本ベトナムラオスフィリピンカンボジア朝鮮民主主義人民共和国大韓民国AD1981年3月2日東京
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概要

1945年8月、ソ連軍が満洲に入り、開拓団の日本人は逃げまどった。途中で親と死別し、あるいは生きるために預けられた子どもたちが、中国の家庭で育てられた。国交が正常化してから九年後の1981年3月、中国に残された孤児四十七人が、肉親を探しに初めて集団で日本へ来た。名前も、生まれた村も覚えていない人が多い。手がかりは、預けられたときの服や、かすかな記憶や、体の傷だった。報道が顔と特徴を伝え、心当たりのある人が名乗り出た。この回では三十人の身元が分かった。調査はその後も続いたが、分かったのは三割ほどにとどまる。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

1930年代から、日本は満洲(中国東北部)へ大勢の人を送り込んだ。満洲事変の後に作られた満洲国を支え、ソ連との国境を固めるためである。その柱が開拓団だった。農村の次男や三男が送られ、村ごと移り住む「分村」も行われた。敗戦のころ、開拓団として満洲にいた人は二十数万人にのぼったとされる。ところが戦争の終わり近く、働き盛りの男たちの多くは軍に召集されていた。開拓団の村に残っていたのは、女性と子どもと年寄りが多かった。

1945年8月9日、ソ連軍が国境を越えて満洲になだれ込んだ。玉音放送の6日前である。開拓団の人々は逃げた。鉄道は軍や役人の家族が先に使ったといわれ、奥地の開拓団の多くは歩いて逃げるしかなかった。途中で襲われ、追い詰められて集団で自ら命を絶った団もあった。生き延びて都市にたどり着いた人々も、冬の難民収容所で飢えと寒さと発疹チフスに倒れた。満洲で死んだ開拓団の人々は、数万人にのぼる。

方正地区日本人公墓の中の様子
方正地区日本人公墓の中の様子Wikimedia Commons 関口智宏 · Public domain

この混乱の中で、多くの子どもが中国に残された。連れて歩けば死ぬ、置いていけば育ててもらえるかもしれない、と考えた親が、我が子を中国人の家に託した。親が死に、取り残された子を、近くの中国人の家が引き取ったこともあった。日本は中国を侵略した国である。その国の子を育てることは、周りからよく思われないこともあった。それでも、多くの中国人がこうした子どもたちを育てた。のちに「養父母」と呼ばれる人々である。

1949年に中華人民共和国が成立すると、日本との国交は無く、民間の手による引揚げも1958年ごろにいったん途絶えた。翌1959年、日本では、生死の分からない未帰還者を戦時死亡したものとして扱える特別な法律ができた。中国に残された子の多くも、戸籍のうえでは死んだことになった。

1972年、日中国交正常化が実現すると、手紙が行き来するようになった。自分は日本人の子らしい、と名乗り出る人が現れ、日本の肉親を探してほしいという手紙が届き始めた。民間の人々や報道機関がその声を伝え、政府もようやく動き出した。

1981年3月2日、中国に残された孤児47人が、肉親を探すため初めて集団で日本へやって来た。多くは40歳前後になっていた。日本語はほとんど話せない。名前も、生まれた村も覚えていない人が多かった。手がかりは、預けられたときの年のころ、覚えている親の顔や兄弟の数、身につけていた着物の柄やお守り、そして体のあざや傷である。

新聞とテレビが、一人ひとりの顔写真と、覚えている特徴を連日伝えた。うちの子かもしれない、という電話が次々にかかり、名乗り出た人と孤児が会って、記憶を突き合わせた。通訳を介して、幼いころの家の様子や、別れたときの状況を確かめ合う。涙の対面の場面が何度もテレビに映し出された。この回では、半数を超える人の身元が分かった。

調査はその後も続いた。1999年までに集団での訪日調査は30回行われ、2100人あまりが日本へ来た。そのうち身元が分かったのは3割ほどにとどまる。年を追うごとに、手がかりは薄れていった。探す親が老いて死んでいき、当時のことを覚えている人がいなくなる。顔は36年たてば変わる。のちには血液の型や遺伝子の検査で親子関係を確かめるようになったが、それが使えるようになったころには、親の多くがもう世を去っていた。

身元が分かっても分からなくても、日本に永住帰国する人々がいた。しかし40代、50代になって日本へ来た人々は、言葉の壁と仕事の無さに苦しんだ。年金はわずかで、多くが生活保護に頼らざるをえなかった。中国の養父母を残して来たことに心を痛める人も多かった。2000年代に入ると、国が早く帰国させる手立てを取らず、帰国後の支えも薄かったとして、孤児たちが各地で国を相手に裁判を起こした。原告は2000人を超えた。判決の多くは国の責任を認めなかったが、運動を受けて2007年に支援の法律が改められ、生活の支えが手厚くされた。

捕虜の消息を集めるは、名前を手がかりに人を探した。ここでは、その名前が分からない。手がかりは着物の柄と体の傷と、断片的な記憶だけである。名前は、人を探すためのいちばん強い手がかりである。それを幼いうちに失うと、残るのは顔と話だけになる。戦争は、家族を引き裂いただけでなく、家族を探すための手がかりまで奪ったのである。

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