ネヴィル・チェンバレン
概要
バーミンガムの実業家。大蔵大臣で財政を立て直し、1937年に首相。「私は平和の人」。ヒトラーの所へ三度飛んだ。飛行機に乗ったのは初めてだった。ミュンヘン。「我々の時代の平和」。1939年9月、宣戦。1940年5月、ノルウェーの失敗で退き、チャーチルに。半年後、癌で死んだ。
関わったできごと(1)
ミュンヘン会談AD1938年9月30日 · 譲った本文
アーサー・ネヴィル・チェンバレンは1869年3月18日、イングランド中部の工業都市バーミンガムに生まれた。父ジョゼフ・チェンバレンはねじ製造で財を成した実業家で、バーミンガム市長として上下水道やガスを市営にして町を作り変え、のちに植民地大臣として帝国の拡大を唱えた大政治家である。異母兄のオースティンは政治家の道を継ぎ、外相としてロカルノ条約をまとめてノーベル平和賞を受けた。ネヴィルは家の中で、事業を担う側の息子として育てられた。

21歳のとき、父の命でバハマ諸島のアンドロス島へ渡り、サイザル麻の農園を拓いた。7年にわたって働いたが、土地が合わず事業は失敗し、家は大金を失った。帰国して金属工場の経営に携わり、地道に成功を収めた。市議会に入り、1915年にバーミンガム市長になった。政界に出たのは遅く、1918年、49歳で下院議員に初当選した。
チェンバレンが力を発揮したのは内政だった。1920年代に保健大臣として、寡婦や孤児への年金、老齢年金の仕組みを整え、住宅の建設を進め、地方行政を改めた。1931年、世界恐慌のさなかに大蔵大臣になると、財政を引き締め、輸入品に関税をかけて帝国内の貿易を優先する政策を取った。父が生涯かけて唱えた帝国特恵を、息子が実現したことになる。イギリスの経済は他国より早く回復に向かった。

1937年5月、ボールドウィンの後を受けて首相になった。68歳だった。チェンバレンは、第一次世界大戦の惨禍を繰り返してはならないと考えていた。ドイツには、ヴェルサイユ条約で過酷に扱われたという言い分にも理があり、その不満を一つずつ話し合いで取り除けば、戦争は避けられると信じていた。これが宥和政策である。同時に、時間を稼いで軍備を整える必要があることも分かっていた。
1938年3月、ヒトラーはオーストリアを併合した(オーストリア併合)。次に狙ったのは、チェコスロヴァキアの国境地帯でドイツ系住民が多く住むズデーテン地方だった。9月、戦争の危機が迫ると、チェンバレンは自らヒトラーに会いに行くと決めた。15日、ほとんど飛行機に乗ったことのない69歳の首相がミュンヘンへ飛び、ベルヒテスガーデンの山荘でヒトラーと向き合った。22日にはライン河畔のゴーデスベルクで再び会ったが、ヒトラーはさらに要求をつり上げた。イギリスでは防空壕が掘られ、ガスマスクが配られた。

9月29日から30日、ミュンヘンでイギリス・フランス・ドイツ・イタリアの首脳が会談し、ズデーテン地方をドイツに渡すことが決まった(ミュンヘン会談)。当事者のチェコスロヴァキアは会議に呼ばれなかった。チェンバレンはヒトラーと二人だけで、今後は話し合いで問題を解決するという短い宣言に署名させた。ロンドン郊外の飛行場に降りると、その紙を掲げて見せ、その夜、首相官邸の窓から、これは名誉ある平和であり、我々の時代の平和だと思う、と語った。群衆は歓呼し、新聞はこぞって讃えた。
半年後の1939年3月15日、ドイツ軍はプラハに入り、チェコスロヴァキアの残りを解体した。ヒトラーの要求がドイツ系住民の統合では終わらないことが、誰の目にも明らかになった。チェンバレンは2日後の故郷バーミンガムでの演説で、裏切られたことを認め、3月31日、ポーランドの独立を保証した。

9月1日、ドイツはポーランドに攻め込んだ。3日、チェンバレンはラジオで宣戦を告げ、私が働いてきたすべてのもの、望んできたすべてのものが崩れ去った、と語った。それから半年あまり、西部戦線ではほとんど戦いが起きず、「まやかし戦争」と呼ばれた。
1940年4月、イギリスはノルウェーに兵を送ったが、ドイツ軍に押されて撤退した。5月7日と8日、下院でこの失敗をめぐる討論が開かれた。保守党の長老エイマリーは、かつてクロムウェルが残部議会を追い払ったときの言葉を引き、あなたがたは長く居すぎた、神の名において去れ、とチェンバレンに迫った。採決では政府が勝ったが、多くの与党議員が反対に回った。5月10日、ドイツ軍がオランダとベルギーに攻め込んだその日、チェンバレンは辞任し、チャーチルが首相になった。
チェンバレンは保守党の党首として残り、枢密院議長として戦時内閣に加わった。5月の末、フランスが崩れ、イギリス軍がダンケルクに追い詰められていたころ(ダンケルクの撤退)、外相ハリファックスはイタリアを通じてドイツとの講和の条件を探るべきだと主張した。保守党の多くはまだチャーチルを信用していなかったが、チェンバレンは最後にはチャーチルの側に立って戦い続けることを支えた。この数日の彼の判断が、首相になったばかりのチャーチルを助けたと見る歴史家は多い。

夏に腸の癌が見つかり、手術を受けた。10月、すべての職を退いた。11月9日、ロンドンの西の田舎の家で死んだ。71歳。ドイツの空襲(ロンドン大空襲)が続く中だった。チャーチルは下院で追悼の演説をし、人の行いを導くのは良心だけであり、歴史の判断がどうであれ、彼は平和のために誠実に力を尽くした、という趣旨の言葉を述べた。
死の前から、チェンバレンは「罪ある人々」の筆頭として非難されていた。1940年に出たその題の小冊子は、彼らが国を戦争に備えさせなかったと責めた。いつも持ち歩いていた雨傘は、宥和の象徴として風刺画に描かれた。一方で、首相時代に戦闘機と防空のためのレーダー網に予算を回したのはチェンバレンの政府であり、その備えが1940年のバトル・オブ・ブリテンで生きたと評価する声もある。1938年に戦っていればチェコスロヴァキアの軍と要塞を味方にできた、という批判と、あの時の国民も軍も戦う用意はなかった、という弁護は、いまも並んでいる。ミュンヘンは、独裁者への譲歩を戒める言葉として、その後の世界で何度も持ち出されることになった。