ガリポリの戦い

概要
連合軍が撤退した。オーストラリアとニュージーランドでは、この犠牲が国民意識の原点として記憶される。
場所
40.23°N 26.42°E · トルコ
本文
1914年11月、オスマン帝国はドイツの側に立って第一次世界大戦に加わった。これで、イギリスやフランスが同盟国ロシアへ物資を送る海の道が閉ざされた。地中海から黒海へ抜けるには、ダーダネルス海峡、マルマラ海、ボスポラス海峡を通るしかない。西部戦線が塹壕で行き詰まる中、イギリスの海軍大臣チャーチルは、艦隊で海峡を突破し、オスマンの都イスタンブルを直接脅かせば、オスマンを戦争から脱落させられると考えた。
1915年2月から、英仏の艦隊は海峡の入り口の砲台を砲撃し始めた。3月18日、主力艦隊が海峡の奥へ押し入ったが、オスマン側が敷設した機雷に次々に触れ、戦艦3隻が沈み、ほかにも大きな損害を受けて退いた。艦隊だけでは突破できないと分かり、陸軍を上陸させて海峡の西側のガリポリ半島を占領する作戦に切り替えられた。トルコでは、この3月18日がチャナッカレの勝利の日として記念されている。

4月25日の夜明け、上陸が始まった。イギリス軍などは半島の南端のヘレス岬に、オーストラリアとニュージーランドの軍団(アンザック)は西岸の入り江に上陸した。アンザックが上陸した浜は、予定より北にずれていたともいわれ、目の前には急な崖と入り組んだ谷がそびえていた。高い所を押さえたオスマン軍の銃火の下で、兵たちは浜のわずかな土地にしがみついた。オスマン軍を指揮したのは、ドイツの将軍リーマン・フォン・ザンデルスで、その下で一個師団を率いていたのが、のちのケマル・アタテュルク、ムスタファ・ケマルである。ケマルは、高地へ向かうアンザックを食い止めるために部下を送り出す際、攻撃せよとは命じない、死ねと命じる、と言ったと伝えられる。
戦いは、西部戦線と同じ塹壕戦になった。双方の塹壕は、場所によっては数メートルしか離れていなかった。夏には暑さと蠅、飲み水の不足に苦しみ、赤痢などの病が兵を倒した。8月、連合軍は北のスヴラ湾に新たな部隊を上陸させ、アンザックの陣地からも高地を奪おうとしたが、どちらも失敗した。冬が近づくと、豪雨と吹雪が塹壕を襲い、凍傷で倒れる者も出た。

作戦の失敗は、ロンドンの政治も揺るがした。チャーチルは5月に海軍大臣の座を追われ、のちに自ら志願して西部戦線へ出征した。12月から翌1916年1月にかけて、連合軍は半島から撤退した。夜の闇にまぎれ、仕掛けで自動的に銃が撃たれるようにして敵を欺き、この撤退だけはほとんど犠牲を出さずに成功した。
8か月あまりの戦いで、両軍の死傷者は合わせて50万人前後にのぼったとされる。戦死者は、オスマン側が5万人台から8万人台、連合軍側が4万人台から5万人台と見積もられている。連合軍の兵には、イギリスやフランスの本国兵のほか、インド、ニューファンドランド、フランス領のアフリカからの兵もいた。オーストラリア兵は8000人あまり、ニュージーランド兵は2700人あまりが戦死した。

オーストラリアとニュージーランドは、まだイギリス帝国の自治領で、国として大きな戦争に兵を送ったのはこれが初めてだった。戦略的には失敗に終わったが、若者たちが遠い異国の崖の下で戦い、死んだ記憶は、自分たちがイギリスの一部ではなく、独自の国民だという意識を育てた。上陸の日の4月25日はアンザック・デーとして、今も両国で最も重い記念日の一つであり、夜明けの式典がガリポリの浜でも開かれている。
トルコの側にとっても、この戦いは国の記憶の原点になった。帝国の兵は、首都に迫る大国の軍を退けた。ケマルはこの戦いで名を上げ、戦後、トルコ共和国を建てる指導者となる。上陸の前日の4月24日、イスタンブルではアルメニア人の知識人たちが一斉に逮捕され、アルメニア人虐殺が本格的に始まっている。帝国が首都の防衛に追い詰められていた時期でもあった。