ホロコースト

概要
約600万人のユダヤ人が組織的に殺された。近代の官僚機構と技術が、絶滅のために使われた。
場所
50.03°N 19.20°E · ポーランド
関わった人(3)
アンネ・フランクAD1929年6月12日–AD1945年2月または3月 · 隠れ家で書いたオスカー・シンドラーAD1908年4月28日–AD1974年10月9日 · 1200人を救った杉原千畝AD1900年1月1日–AD1986年7月31日 · ビザを書きつづけた本文
ナチス・ドイツとその協力者たちは、第二次世界大戦のさなか、ヨーロッパのユダヤ人約600万人を、計画的に殺害した。戦前のヨーロッパに暮らしていたユダヤ人のおよそ3分の2にあたる。英語ではギリシア語の「焼き尽くす捧げ物」に由来するホロコーストと呼ばれ、ヘブライ語では「破局」を意味するショアと呼ばれる。殺されたのはユダヤ人だけではない。ロマの人々、障害のある人々、ソ連軍の捕虜、ポーランド人をはじめとするスラヴ系の人々、同性愛者、政治犯や宗教上の反対者も、迫害され、多くが命を奪われた。
始まりは、法律だった。1933年のナチスの政権掌握から間もなく、ユダヤ人の商店の不買運動が組織され、ユダヤ系の公務員が職を追われた。1935年のニュルンベルク法は、ユダヤ人からドイツ国籍に伴う権利を奪い、ユダヤ人とそれ以外のドイツ人との結婚を禁じた。誰がユダヤ人かは、本人の信仰ではなく、祖父母の血筋で決められた。

1938年11月の水晶の夜では、ドイツ各地でシナゴーグが焼かれ、商店が打ち壊され、ユダヤ人の男性が数万人規模で強制収容所に送られた。国外へ逃れようとする人々は増えたが、同じ年にフランスのエヴィアンで開かれた国際会議では、ほとんどの国が難民の受け入れを広げることを渋った。イギリスは、親と離れた子どもたちだけを受け入れるキンダートランスポートで、約1万人を救った。
戦争が始まると、迫害は殺害へと変わっていく。1939年、ドイツは国内の障害のある人々を「生きるに値しない命」として殺すT4作戦を始めた。ここで、ガスを使って人を殺す方法と、それを担う人員が育てられた。ポーランドを占領したドイツは、ユダヤ人を都市の一角のゲットーに閉じ込めた。ワルシャワのゲットーには40万人以上が押し込められ、飢えと病気で多くの人が死んだ。

1941年6月、ドイツはソ連に攻め込んだ。後を追った移動殺戮部隊は、占領した町や村でユダヤ人を集めては、郊外の谷や穴の縁で銃殺していった。キーウ郊外のバビ・ヤールでは、2日間で3万3000人以上が殺された。銃殺による犠牲者は、合わせて百数十万から200万にのぼるとされる。同じ年の暮れには、ガスを使った殺害が始まった。
1942年1月、ベルリン郊外の湖畔の邸宅で、ナチスの党と国家の機関の幹部たちが集まった。ヴァンゼー会議である。殺害そのものを決めた会議ではなく、すでに始まっていた「ユダヤ人問題の最終的解決」を、各省庁が協力して進めるための調整の場だった。議事録には、ヨーロッパ全体で1100万人のユダヤ人が対象として数え上げられている。
占領下のポーランドには、殺すためだけの施設が造られた。ベウジェツ、ソビブル、トレブリンカでは、列車で運ばれてきた人々の大半が、着いたその日のうちにガス室で殺された。最大の規模になったのがアウシュヴィッツで、強制労働の収容所と絶滅のための施設を兼ね、ここだけで約110万人が殺された。その9割がユダヤ人だった。ヨーロッパ各地から人々を運ぶ列車は、通常の旅客と同じように時刻表に組み込まれ、運賃の計算までなされた。
殺される側も、ただ従ったわけではない。1943年4月のワルシャワ・ゲットー蜂起では、わずかな武器しか持たないユダヤ人の若者たちが、ドイツ軍に1か月近く抵抗した。ソビブルやトレブリンカでも収容者の蜂起と集団脱走が起きている。日記や記録を地中に埋めて、後の世に残そうとした人々もいた。

救おうとした人々もいた。1940年、リトアニアのカウナスで日本の領事代理だった杉原千畝は、本国の指示に背いてビザを書き続け、数千人の脱出を助けた。ドイツの実業家オスカー・シンドラーは、自分の工場の労働者として約1200人を守った。オランダではアンネ・フランクの一家が、支援者たちにかくまわれて隠れ家で2年余りを過ごしたが、密告されて捕まり、アンネは1945年の初めにベルゲン・ベルゼン収容所で病死した。イスラエルの記念館は、ユダヤ人を救った非ユダヤ人を「諸国民の中の正義の人」として顕彰しており、その数は2万人を超える。
1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツを解放した。この日は今、国際的なホロコースト犠牲者の記念日になっている。だが撤退するドイツ軍は、多くの収容者を雪の中を歩かせて西へ移し、この「死の行進」でもさらに多くの人が倒れた。春に収容所に入った連合軍の兵士たちは、積み重なった遺体と、骨と皮ばかりになった生存者を目にした。

戦後、ニュルンベルク裁判で指導者たちが裁かれた。1961年にはエルサレムでアイヒマン裁判が開かれ、ユダヤ人の移送を取り仕切った元親衛隊の将校アイヒマンが裁かれて死刑になった。裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントは、そこにいたのは怪物ではなく、命令と出世のために職務をこなす平凡な役人だったと書き、「悪の陳腐さ」という言葉を残した。台帳で人を管理し、鉄道で運び、書類に判を押す。自分は書類を書いただけ、列車を動かしただけ、という形で責任が分散された仕組みを指した言葉である。ただし、のちの研究で、アイヒマン自身は筋金入りの反ユダヤ主義者だったことも明らかになり、アーレントの見立てには批判もある。
なぜ、近代の国家と社会がこれほどのことをなし得たのか。ユダヤ人への長い偏見、敗戦と恐慌の中で人々が求めた「敵」、独裁による法の破壊、戦争という状況、そして多くの普通の人々の協力と沈黙。歴史家たちは、そのどれか一つではなく、それらの重なりとして答えようとしてきた。生存者の証言を記録し、収容所の跡を保存し、事実を否定する言説に対抗する取り組みは、今も続いている。