東京大空襲

概要
B29が300機、低空から焼夷弾1665トン。2時間半で下町が燃え、10万人が死んだ。一晩の死者として史上最大。ルメイは「日本の家は紙と木だ」と言った。同じ方法で64の都市が焼かれ、それから原爆。犠牲者の名前はまだ全部分かっていない。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1944年の夏、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムを奪い、そこに大型爆撃機B29の基地を築いた。日本の本土はB29の航続距離の中に入った。11月24日、マリアナを発ったB29の編隊が初めて東京を襲った。狙いは武蔵野の中島飛行機の工場だった。当時のアメリカ軍の方針は、高い高度から昼間に軍需工場を狙う「精密爆撃」だった。
だが、この方法はうまくいかなかった。日本の上空1万メートルには強い偏西風、ジェット気流が吹いていて、爆弾は狙いから大きくそれた。冬の日本は雲に覆われることも多く、目標が見えなかった。1945年1月、成果の上がらない指揮官に代わって、第21爆撃機集団の司令官にカーティス・ルメイが着任した。ヨーロッパでドイツへの爆撃を指揮してきた将軍である。

ルメイは方法を根本から変えた。高度を下げ、夜に、焼夷弾で、市街地そのものを焼く。日本の都市は木と紙の家が密集しており、焼夷弾で大火災を起こせば、家々の中に散らばる小さな町工場もろとも焼き払える、という考えだった。爆撃機の銃座と弾薬を降ろし、そのぶん焼夷弾を多く積ませた。用意されたのは、油脂を詰めたM69焼夷弾を束ねた集束弾で、空中でばらけて広い範囲に降り注ぐ。2月25日には、雪の東京に昼間の焼夷弾攻撃が試みられていた。
3月9日の夕方、325機のB29がマリアナの基地を飛び立った。日付が3月10日に変わった直後の午前0時7分過ぎ、先導の機が深川のあたりに焼夷弾を落とし始めた。続く編隊は、高度1500から3000メートルほどの低空で、炎を目印に次々に投弾した。狙われたのは、隅田川の東の本所、深川、城東、そして浅草などの下町である。人が最も密集して暮らす地区だった。

その夜は強い北風が吹いていた。火は風にあおられて燃え広がり、各地で炎がつながって巨大な火の渦が生まれた。人々は川や運河、学校や公園へ逃げたが、炎と熱風は逃げ場を奪った。隅田川に架かる言問橋では、両岸から逃げてきた人々が橋の上で押し合い、そこへ火が襲った。川に飛び込んだ人々も、冷たい水と熱風の中で多くが命を落とした。爆撃はおよそ2時間半続き、投下された焼夷弾は1600トンを超えた。
夜が明けると、下町は焼け野原になっていた。焼けた面積はおよそ41平方キロ、焼失した家は26万戸を超え、100万人あまりが家を失った。死者はおよそ10万人とされる。警視庁の当時の集計は8万人あまりだったが、その後の調査で、10万人を超えるという見方が一般的になった。一夜の空襲による死者としては、世界の歴史でも最大級のものである。アメリカ側が失ったB29は十数機だった。
3月10日は、日露戦争の奉天会戦の勝利を記念する陸軍記念日だった。それがこの日を選んだ理由だったとする説もあるが、はっきりしない。いずれにせよ、東京への攻撃は始まりにすぎなかった。2日後の3月12日には名古屋、13日から14日には大阪、17日には神戸が、同じ方法で焼かれた。その後も大都市への攻撃が繰り返され、夏には全国の中小の都市にまで広がった。焼かれた都市は60を超える。8月の広島・長崎への原爆投下は、その延長に来た。

ルメイは戦後、回顧録の中で、あの夜に人々は焦がされ、煮られ、焼かれて死んだ、と書いている。また、もし戦争に負けていたら、自分は戦争犯罪人として裁かれていただろう、という趣旨のことも語ったと伝えられる。都市そのものを焼く空襲は、日本軍が中国の重慶に繰り返した爆撃や、ドイツ軍によるロンドン大空襲、連合軍のドレスデン爆撃と同じく、軍人と市民の区別をなくした戦争の姿だった。ドレスデンが焼かれたのは、東京の3週間ほど前のことである。
戦後、日本は焼け跡から立ち直っていくが、空襲の犠牲者は長く置き去りにされた。1964年、日本政府はルメイに勲一等旭日大綬章を贈った。航空自衛隊の育成に貢献したという理由で、批判の声が上がった。東京の犠牲者の遺骨の多くは、身元が分からないまま、墨田区の横網町公園にある東京都慰霊堂に納められた。関東大震災の犠牲者を祀るために建てられた堂である。東京都は後に犠牲者の名簿づくりを始め、いまでは8万人あまりの名が記されているが、すべての名はいまも分かっていない。

国は、軍人や軍属とその遺族には恩給や年金を支払ってきたが、空襲で死傷した民間人には補償をしてこなかった。被災者と遺族は国に謝罪と補償を求めて裁判を起こしたが、2013年、最高裁判所は上告を退けた。戦争の被害は国民が等しく耐え忍ぶべきものだ、という「受忍論」が、こうした訴えを退ける論理として使われてきた。
空襲の記憶を残そうとしたのは、市民だった。12歳でこの夜を生き延びた作家の早乙女勝元らは、1970年に「東京空襲を記録する会」を作り、体験者の証言を集めた。2002年には、市民の募金で江東区に「東京大空襲・戦災資料センター」が開かれた。

原爆の陰に隠れがちだが、日本の多くの都市は、原爆の前に、東京の3月10日と同じ方法で焼かれていた。焼け跡に立った人々の記憶は、いまも証言として語り継がれている。