概要
1942年2月、戦争のさなかの日本で、米や麦を国が生産者から買い上げ、配給で国民に渡す法律ができた。食糧管理法である。農家は決められた量を国に売らなければならず、町の人々は通帳を持って配給所で米を受け取った。量は一人一日二合三勺と決められたが、戦争の末期から戦後にかけては、それも届かないことが多かった。戦後も法律は残り、国は米を農家から高く買って消費者に安く売った。その赤字と米の余りが、のちの減反につながる。法律が廃止されたのは、1995年である。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
日中戦争が長引くと、日本では米が足りなくなった。兵士に食べさせる米が要り、農村からは働き手が兵隊に取られ、朝鮮や台湾から運ぶ米も船が足りずに届かなくなる。1939年には米の値段を国が決め、1941年4月には、東京や大阪などの大きな町で、米を通帳で配る配給が始まった。量は、大人一人一日二合三勺である。
1942年2月21日、食糧管理法が公布された。米や麦を作った農家は、自分の家で食べる分を除いて、すべてを国に売らなければならない。国はそれを配給で国民に割り当てる。米の取引は、国の手に一本化された。自由に米を売り買いすることは、闇の取引として罰せられた。
戦争の末期から戦後の数年は、配給は遅れ、量も減り、米の代わりに芋やとうもろこしや大豆のかすが配られた。配給だけで暮らせば飢える。人々は着物を持って農村へ買い出しに行き、闇市で米を買った。1947年、闇の米を拒んで配給だけで暮らした裁判官の山口良忠が、栄養失調で亡くなっている。
戦後、食糧が足りるようになったあとも、法律は残った。国は、農家から米を高く買い、消費者には安く売って、農家の暮らしを支えた。その差は国の赤字になり、作りすぎた米は倉庫に積み上がって、減反政策につながる。1995年に法律は廃止され、米は自由に売り買いできるようになった。