できごと

旅順攻囲戦

Siege of Port Arthur
AD1904年8月19日
重要度 4
旅順攻囲戦に関わる図版:RusShellJapLine1905
RusShellJapLine1905 Wikimedia Commons Public domain

概要

乃木の第三軍が要塞を5か月囲み、203高地を取るまでに6万人の死傷者を出した。乃木は二人の息子をここで失った。機関銃と鉄条網とコンクリートの要塞に歩兵で向かう戦争の、最初の大きな例になる。

場所

旅順
38.80°N 121.26°E · 中国・遼寧省大連

関わった人(1)

乃木希典AD1849年12月25日–AD1912年9月13日 · 司令官

本文

旅順は、遼東半島の先端にある港である。入口が狭く、まわりを山に囲まれた天然の良港で、清の北洋艦隊の基地だった。日清戦争(日清戦争)で日本はこの港を落とし、講和条約で遼東半島を得たが、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉で手放した。その3年後の1898年、ロシアは旅順と大連を清から租借し、旅順を太平洋艦隊の基地とした。ロシアは港を囲む丘の上に、コンクリートで固めた堡塁と砲台を連ね、鉄条網を張りめぐらせた。当時の日本では、コンクリートをフランス語由来の「ベトン」と呼んだ。

1904年2月8日の夜、日本の水雷艇が旅順の港外に停泊していたロシアの艦隊を奇襲し、日露戦争が始まった。宣戦布告はその2日後である。ロシアの艦隊は港の奥に引きこもり、要塞の砲に守られて出てこなくなった。東郷平八郎(東郷平八郎)の連合艦隊は、古い商船を港の入口に沈めて艦隊を閉じ込める閉塞作戦を三度試みたが、いずれも失敗した。3月の二度目の作戦で戦死した海軍少佐広瀬武夫は、行方の分からなくなった部下を探して船内を回ったという話とともに「軍神」として称えられ、歌にもなった。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

5月、陸軍の第二軍が遼東半島の付け根の南山を攻め、一日で4000人を超える死傷者を出して陣地を奪った。このとき日本軍が一日に撃った砲弾は、日清戦争の全期間に使った量を超えたと言われる。新しい戦争の大きさが、早くも見え始めていた。この戦いで、第三軍の司令官に任じられた乃木希典の長男勝典が戦死した。

ロシアのバルト海の艦隊が、地球を半周して極東へ向かう準備を始めていた。その到着までに旅順の艦隊を沈めなければ、海で負ける。旅順の攻略を任された乃木の第三軍は、早く落とすことを求められていた。8月19日、第三軍は第一回の総攻撃を始めた。東鶏冠山、二龍山、松樹山などの堡塁に向かって、歩兵が正面から突撃した。だが堡塁の機関銃は、斜面を登ってくる兵をなぎ倒し、鉄条網が前進を阻んだ。6日間の攻撃で、日本軍は1万5000人を超える死傷者を出し、要塞の主な堡塁は一つも落ちなかった。

203高地(1904年12月14日)
203高地(1904年12月14日)Wikimedia Commons Imperial Japanese Navy General Staff · Public domain

その後も攻撃は続いた。9月と10月の攻撃では、堡塁の下まで坑道を掘り進めて爆破する方法や、日本の海岸の守りに据えていた28センチの巨大な榴弾砲を運んで据え付け、堡塁を砲撃する方法が取られた。それでも要塞は持ちこたえた。11月26日の第三回総攻撃では、白い襷を掛けて目印にした3000人ほどの決死隊(白襷隊)が夜襲をかけたが、その多くが倒れた。

第三軍は攻撃の重点を、港の西にある203高地に移した。山頂からは港の中が見下ろせ、そこに観測の兵を置けば、28センチ砲の弾を港の艦隊に正確に落とせる。11月27日から、日本軍は203高地に兵を注ぎ込み、山頂の奪い合いを繰り返した。11月30日、乃木の次男保典が、この山で戦死した。乃木は二人の息子をともに旅順で失ったのである。12月5日、日本軍は203高地の山頂を確保した。この時期、満洲軍の総参謀長児玉源太郎が旅順に来て、作戦の指導に深く関わったとされるが、その役割がどれほど決定的だったかには議論がある。

第3軍の旅順への前進
第3軍の旅順への前進Wikimedia Commons Imperial Japanese Navy General Staff · Public domain

山頂に観測所が置かれると、28センチ砲の砲弾が港内のロシアの戦艦に次々に落ち、旅順の艦隊はほぼ全滅した。その後も第三軍は東の堡塁を一つずつ落とし、12月にはロシア側の守りの要だったコンドラチェンコ将軍が砲弾に倒れた。1905年1月1日、要塞の司令官ステッセルは降伏を申し入れた。

1月5日、乃木とステッセルは水師営の農家で会見した。明治天皇(明治天皇)の意向で、乃木は降伏したロシアの将軍に剣を帯びたままでいることを許し、互いの健闘をたたえ合った。この会見の場面は、のちに文部省の唱歌にもなって、子どもたちに歌われた。

旅順の攻囲で、日本軍の死傷者はおよそ6万人、そのうち戦死者は1万5000人を超えた。ロシア側の死傷者も3万人を超えたとされる。旅順を落とした第三軍は北へ向かって3月の奉天の会戦に加わり、5月には日本海海戦(日本海海戦)で連合艦隊がバルト海の艦隊を破って、戦争は9月のポーツマス条約で終わった。

日本海海戦に関わる図版:Battle of Tsushima, 1905 by Tōjō Shōtarō
日本海海戦Wikimedia Commons Tōjō Shōtarō · Public domain

乃木の指揮については、後世、評価が大きく分かれた。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』は、正面からの突撃を繰り返して兵を死なせた無能な司令官として乃木を描き、広く読まれた。これに対して、機関銃と鉄条網とコンクリートの要塞を攻める戦いは、当時のどの軍にとっても未知のもので、乃木一人の責任に帰すのは公平でないという反論も多い。実際、10年後の第一次世界大戦では、ヨーロッパの軍が西部戦線で同じ形の戦いを、はるかに大きな規模で繰り返した。1916年のヴェルダンの戦いでは、10か月で両軍あわせて70万人前後の死傷者が出ている。旅順には各国の観戦武官や記者が来ていたが、その教訓は十分に生かされなかった。

戦争のあと、乃木は明治天皇の前で戦いの報告をし、多くの兵を死なせたことをわびて涙を流し、死をもって償いたいと願ったが、天皇は、自分が生きている間は死んではならないと止めたと伝えられる。1912年9月13日、明治天皇の大葬の夜、乃木は妻静子とともに自宅で自決した。

同じ時代のできごと

秩父事件AD1884年ごみ箱AD1884年3月7日アフリカ分割1884年本初子午線会議AD1884年10月1日万年筆AD1884年ベルリン会議とアフリカ分割1884年11月内閣制度の創設AD1885年12月22日狂犬病のワクチンAD1885年7月6日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1904年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →