日本海海戦

概要
7か月かけて地球を半周してきたバルチック艦隊を、連合艦隊が対馬沖で2日で沈めた。ロシア側は38隻のうち21隻を失い、日本は水雷艇3隻。アジアの国がヨーロッパの大国に海で勝った最初。
場所
34.50°N 129.80°E · 日本海
関わった人(1)
東郷平八郎AD1848年1月27日–AD1934年5月30日 · 司令長官本文
1904年2月に始まった日露戦争で、日本は早くから海を押さえることに賭けていた。ロシアの太平洋艦隊は、遼東半島の旅順港に閉じこもり、8月の黄海での海戦の後はほとんど出てこなくなった。ロシアは、本国のバルト海にいる艦隊を極東へ送り、旅順の艦隊と合わせて日本の海軍を圧倒しようと考えた。こうして編成されたのが第二太平洋艦隊、いわゆるバルチック艦隊である。司令長官は、ニコライ2世の信任の厚いロジェストヴェンスキー中将だった。
1904年10月、艦隊はバルト海のリバウ(いまのラトヴィアのリエパーヤ)の港を出た。航海は初めからつまずいた。北海のドッガーバンクを夜に通ったとき、艦隊はイギリスの漁船団を日本の水雷艇と見誤って砲撃し、漁師2人が死んだ。イギリスの世論は激昂し、一時は戦争すら口にされた。ロシアは謝罪と賠償を約束したが、日本と日英同盟を結んでいたイギリスは、この後も艦隊の航海を陰に陽に妨げた。

艦隊は北アフリカの沖で二手に分かれた。喫水の深い新しい戦艦を中心とする本隊は、スエズ運河を避けてアフリカ大陸の南端の喜望峰を回り、古い艦の一隊は地中海からスエズ運河を通った。最大の難題は燃料の石炭だった。中立国の港に長く留まることはできず、各地の港はイギリスの圧力で補給を渋った。艦隊はドイツの海運会社と契約した石炭船から、洋上で石炭を積み込み続けた。乗組員は、熱帯の暑さの中で石炭の粉にまみれて働いた。
1905年1月、マダガスカル北西のノシベに集結した艦隊に、旅順が陥落したという知らせが届いた(旅順攻囲戦)。合流するはずだった太平洋艦隊は、もう存在しなかった。艦隊はそれでも前進を命じられ、ノシベで2か月以上足止めされた末に、インド洋を渡った。5月には、フランス領インドシナのカムラン湾の近くで、本国から追いかけてきた旧式の艦からなる第三太平洋艦隊と合流した。5月14日、艦隊はウラジオストクを目指して最後の航海に出た。リバウを出てから7か月、航程はおよそ1万8000海里に及んでいた。船底には貝や藻がびっしりとつき、速度は落ちていた。

日本の連合艦隊を率いる東郷平八郎は、朝鮮半島南岸の鎮海湾で艦隊を休ませ、射撃の訓練を重ねて待っていた。ロシア艦隊がウラジオストクへ向かうには、対馬海峡か、津軽海峡か、宗谷海峡を通る。どこを通るかは分からず、司令部では北へ移るべきかで激論があったが、東郷は対馬を通ると見て動かなかった。
5月27日の午前4時45分、対馬の西の海を見張っていた仮装巡洋艦の信濃丸が、霧の中にロシア艦隊を見つけ、「敵艦見ゆ」の信号を打った。信濃丸はもともと日本郵船の貨客船である。連合艦隊はただちに出撃し、東京の大本営に電報が送られた。敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、これを撃滅せんとす、本日天気晴朗なれども波高し。作戦参謀の秋山真之が書き加えた最後の一句は、見通しがよく砲撃に有利だが、波が高く小さな艦艇は働きにくい、という状況の報告であると同時に、名文として長く語り継がれることになった。

午後、両艦隊は対馬の東の沖で出会った。旗艦三笠のマストには、皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ、という意味を込めたZ旗が揚がった。午後2時過ぎ、東郷は、敵の眼前で艦隊の進路を大きく左に回す命令を出した。敵前での大回頭である。回頭の間、艦隊は敵の砲火に身をさらすことになり、三笠は多くの砲弾を受けた。しかし回頭を終えた日本の艦隊は、ロシア艦隊の先頭を押さえる形になり、敵の旗艦に砲火を集中した。日本の砲弾は命中すると激しく燃え、ロシアの艦の上部構造を焼いた。30分ほどで勝負の大勢は決まったといわれる。戦艦オスリャービャが沈み、旗艦スワロフは炎に包まれて隊列を離れ、夕方にはアレクサンドル3世とボロジノも転覆して沈んだ。夜になると、駆逐艦と水雷艇が闇の中で攻撃を続けた。
翌28日の朝、残ったロシアの艦隊を率いていたネボガトフ少将は、日本の艦隊に囲まれて降伏した。ロジェストヴェンスキーは頭に重い傷を負って駆逐艦に移されていたが、その駆逐艦も捕らえられた。ロシア艦隊38隻のうち、21隻が沈められ、6隻が捕らえられ、ウラジオストクにたどり着いたのは巡洋艦1隻と駆逐艦2隻だけだった。残りは中立国の港に逃げ込んで抑留された。ロシア側の戦死者はおよそ5000人、捕虜は6000人を超えた。日本の損失は水雷艇3隻、戦死者は117人だった。海戦の歴史でも、これほど一方的な結果はまれである。ちょうど100年前の1805年に、ネルソンのイギリス艦隊がフランス・スペインの連合艦隊を破ったトラファルガーの海戦と並べて語られた。
陸では、日本は3月の奉天の会戦で勝ったものの、兵も弾薬も底をつきかけていた。ロシアでは1月の血の日曜日事件から革命の動きが広がり、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで水兵の反乱が起きた。海の決着は、両国を講和に向かわせた。6月、日本はアメリカのセオドア・ローズヴェルト大統領に仲介を頼み、9月にポーツマス条約が結ばれた。
アジアの国の艦隊が、ヨーロッパの大国の艦隊を海で打ち破った知らせは、世界を駆けめぐった。オスマン帝国やエジプト、インドなど、ヨーロッパの支配や圧力に苦しむ地域では、これに励まされた人々がいた。少年時代のジャワハルラール・ネルーもその一人だったと、のちに回想している。一方、日本の中では、この勝利が海軍の大艦巨砲の考えを長く縛り、艦隊の決戦で戦争の行方が決まるという思い込みを残したとも指摘される。旗艦三笠は横須賀に保存され、1926年から記念艦になった。第二次世界大戦の後には荒れ果て、一時はダンスホールにまで使われたが、アメリカのニミッツ元帥らの支援もあって復元され、1961年に再び公開された。