蒋介石
概要
国民党を率いて中国を統一しかけ、日本と戦い、内戦に敗れて台湾へ渡った。
関わったできごと(3)
西安事件AD1936年12月12日 · 捕らえられた盧溝橋事件AD1937年7月7日 · 最後の関頭中華人民共和国の成立AD1949年10月1日 · 敗れて台湾へ本文
蒋介石は1887年10月31日、中国東南部の浙江省奉化県の渓口という町で、塩を商う家に生まれた。名は中正、介石は字である。8歳のときに父が死に、母の手で育てられた。母は信仰の篤い仏教徒で、蒋介石は生涯、母を深く敬い続けた。家は豊かではなく、少年時代は親族の争いや役人の取り立てに苦しむ母の姿を見て育ったという。

清の末、日本に倣って軍を近代化しようとする流れの中で、蒋介石は軍人を志した。1906年に日本へ渡り、いったん帰国して保定の陸軍の学校に入った後、1908年に改めて日本に留学した。清国からの留学生のための予備校である振武学校で学び、その後、新潟県の高田にあった陸軍の砲兵連隊で、士官の候補生として隊付きの勤務を経験した。日本の陸軍士官学校そのものには入っていない。日本にいる間に、清を倒そうとする孫文の中国同盟会に加わった。日本の軍隊で学んだ規律と質素な生活は、のちの彼の考え方に深い影響を残した。
1911年、辛亥革命が起きると(辛亥革命)、蒋介石は連隊を離れて帰国し、上海で革命軍に加わった。しかし、革命の後の中国は袁世凱の独裁、そして各地の軍閥の割拠へと崩れていった。蒋介石は上海で、秘密結社の人脈とも交わりながら孫文の運動を支えた。孫文がソ連の援助を受けて国民党を立て直すと、1923年、蒋介石はソ連へ派遣されて赤軍の組織を視察した。帰国後の1924年、広州の近くに開かれた黄埔軍官学校の校長となった。ここで育てた若い将校たちが、のちに蒋介石の軍の中核になる。この頃、国民党は共産党員の入党を認めて手を結んでいた(第一次国共合作)。

1925年に孫文が死ぬと、蒋介石は国民党の軍を握り、1926年、全国を統一するために北方の軍閥を討つ北伐を始めた。北伐軍は勢いよく長江の流域に達したが、その途上で、党内の共産党員と労働者の運動が力を強めていた。1927年4月、蒋介石は上海で、共産党員と労働組合の活動家を一斉に襲わせ、多数を殺害した。上海クーデターである。国共合作は崩れ、蒋介石は南京に国民政府を立てた。同じ年、アメリカで教育を受けた宋美齢と結婚し、キリスト教に入信した。宋美齢の姉は孫文の未亡人の宋慶齢で、兄の宋子文は財政の専門家だった。この結婚は、蒋介石を孫文の後継者として、また欧米と通じる指導者として印象づけた。1928年、北伐軍は北京に入り、中国はいちおう国民政府のもとに統一された。
だが、統一は形の上のものにとどまった。地方の軍閥は半ば独立したままで、農村に逃れた共産党は根拠地を作って抵抗を続けた。1931年に日本が満洲事変を起こして満洲を占領しても、蒋介石は「まず国内を安定させてから外敵を退ける」という方針を掲げ、日本との全面対決を避けて共産党の掃討を優先した。1934年、包囲された共産党軍は根拠地を捨てて、西へ1万キロを超える逃避行に出た(長征)。

1936年12月、共産党の討伐を督励するために西安を訪れた蒋介石は、満洲を追われてきた軍閥の張学良らに捕らえられた(西安事件)。内戦をやめて共産党とともに日本と戦え、という要求だった。共産党の周恩来らも加わった交渉の末、蒋介石は解放され、翌年、国民党と共産党は再び手を結んだ(第二次国共合作)。
1937年7月、北京郊外の盧溝橋事件をきっかけに、日本との全面戦争が始まった(日中戦争)。上海の激戦の末に首都南京が陥落し、日本軍が多数の捕虜や市民を殺害する事件が起きた。国民政府は内陸の重慶に移り、日本軍の爆撃にさらされながら抵抗を続けた。1941年に太平洋戦争が始まると、中国はアメリカ、イギリスとともに連合国の一員となり、1943年には蒋介石はカイロでローズヴェルト、チャーチルと会談して、日本が奪った満洲や台湾を中国に返すことを約束させた。8年に及んだ戦いは、1945年の日本の降伏で終わった。終戦の日の放送で、蒋介石は、日本の人民に報復してはならない、と国民に呼びかけた。
だが勝利のあと、国民党と共産党の内戦が再び始まった。長い戦争で国民政府の財政は破綻し、激しいインフレと役人の腐敗が民心を離れさせた。毛沢東の率いる共産党軍は、農村で土地を分け与えて支持を広げ、各地で国民政府軍を破った。1949年10月、共産党は北京で中華人民共和国の成立を宣言し、同年の暮れ、蒋介石は国民政府とともに台湾へ渡った。
台湾では、その2年前、国民政府の統治に対する住民の抗議を軍が武力で鎮圧した二・二八事件が起きていた。蒋介石は台湾全土に戒厳令を敷き、共産党のスパイの摘発を名目に、多くの人々を投獄し、処刑した。この弾圧は白色テロと呼ばれる。戒厳令は、蒋介石の死後12年たった1987年まで、38年間続いた。一方で、大陸での失敗を教訓に、地主の土地を小作人に払い下げる土地改革を進め、教育を広め、アメリカの援助を受けて産業を育てた。これが、のちの台湾の経済成長の土台となった。

蒋介石は最後まで、大陸を取り戻す「大陸反攻」を掲げ続けた。だが国際社会では次第に孤立し、1971年には国際連合の中国の代表権を北京の政府に奪われた。1975年4月5日、台北で死んだ。87歳だった。いつか故郷に葬られる日のためにと、遺体は台湾の慈湖に仮に安置されたまま、いまに至っている。息子の蒋経国が後を継ぎ、晩年に戒厳令を解いて、台湾の民主化への道を開いた。中国の統一を目指し、日本と戦い抜いた指導者として、また台湾で長い独裁と弾圧を行った支配者として、蒋介石の評価は中国と台湾、そして台湾の中でも、大きく分かれている。