シャルル・ド・ゴール
概要
ロンドンから抵抗を呼びかけ、戦後に第五共和政を作った。アルジェリアの独立を認めたのもこの人になる。
関わったできごと(1)
アルジェリア戦争1954年 · 独立を認めた側本文
1890年11月22日、北フランスのリールに生まれた。父はカトリックの学校で歴史や文学を教える教師で、家は信仰が篤く、愛国心の強い家庭だった。少年時代から、フランスの栄光という観念に取りつかれていたと本人が回想録に書いている。陸軍士官学校サン・シールに進み、歩兵の将校になった。若い頃に配属された連隊の長が、のちの元帥ペタンだった。
第一次世界大戦では3度負傷し、1916年、ヴェルダンの戦いで捕虜になった。収容所から5回脱走を試み、すべて失敗している。戦後はポーランドへ派遣され、ソヴィエト・ロシアとの戦争で軍事顧問を務めた。

両大戦の間、ド・ゴールは軍の中で扱いにくい論客として知られた。1934年の著書で、戦車を集中して使う機動部隊と、それを動かす職業軍人の軍隊を作るべきだと説いた。フランス軍の主流は、国境に築いた要塞線で守り切る考えに傾いており、この主張は相手にされなかった。皮肉にも、戦車の集中運用をいち早く形にしたのはドイツ軍だった。
1940年5月、ドイツ軍が西へ攻め込むと、ド・ゴールは急ごしらえの機甲師団を率いて反撃し、准将に昇進した。6月には陸軍次官として政府に入ったが、政府は降伏へ傾いていく。首相を継いだペタンが休戦を求めると、ド・ゴールは6月17日、飛行機でロンドンへ逃れた。

翌6月18日、BBCのラジオで、戦いを続けようとフランス人に呼びかけた。この放送は録音が残っておらず、当時聞いた人はわずかだったとされる。「フランスは一つの戦いに敗れた。だが、戦争に敗れたのではない」という有名な言葉は、この直後にロンドンの街に貼られたポスターの文句で、ラジオの言葉そのものではない。本国のヴィシー政権は、彼に欠席裁判で死刑を言い渡した。
ロンドンで作った「自由フランス」は、はじめ数千人の小さな集団にすぎなかった。ド・ゴールは、自分こそがフランスの正統だという態度を崩さず、資金と武器を頼るイギリスのチャーチルとも、ヴィシー政権との関係を探るアメリカのフランクリン・ローズヴェルトとも激しくぶつかった。チャーチルは「私が背負った十字架のうち、いちばん重いのはロレーヌ十字だ」と言ったと伝わる。ロレーヌ十字は自由フランスの印である。それでもアフリカの植民地を一つずつ味方につけ、国内のレジスタンスとも手を結び、1943年にはアルジェで亡命政府の主導権を握った。

1944年8月、パリが解放されると、ド・ゴールはシャンゼリゼを歩いて凱旋した。連合軍の占領行政ではなく、フランス人自身の政府がフランスを治める形を作ったことが、何よりの功績とされる。臨時政府の首班として、女性の参政権を認め、銀行や大企業の国有化を進めた。しかし政党同士の駆け引きに嫌気がさし、1946年1月、突然辞任した。
それから12年、東フランスの村コロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーズに引きこもり、回想録を書いた。第四共和政は政権が目まぐるしく変わり、植民地の戦争に足を取られていった。インドシナで敗れ、続いてアルジェリア戦争が泥沼になる。

1958年5月、アルジェリアでフランス人入植者と軍の一部が反乱を起こし、本土への進攻までささやかれた。崩壊寸前の議会は、ド・ゴールを首相に呼び戻した。彼は大統領に強い権限を持たせる新しい憲法を作り、国民投票で承認させた。第五共和政である。翌1959年、初代の大統領に就いた。アルジェで群衆に「私はあなたがたを理解した」と叫んだ彼を、入植者たちは「フランスのアルジェリア」の守り手だと信じた。
だがド・ゴールは、アルジェリアを手放す道を選んだ。民族自決を認める方針を打ち出し、1961年には将軍たちのクーデター未遂を抑え込み、1962年のエヴィアン協定でアルジェリアの独立を認めた。入植者の過激派組織は彼を裏切り者とみなし、パリ郊外で乗っていた車に機関銃を浴びせた。車は穴だらけになったが、夫妻は無事だった。同じ頃、サハラ以南のフランス植民地の多くも独立している。

外交では「フランスの偉大さ」を掲げ、アメリカに従わない道を取った。1960年に原爆の実験を成功させて独自の核を持ち、1963年には西ドイツのアデナウアーと友好条約を結んで独仏和解の土台を作った。イギリスのヨーロッパ共同体への加盟は二度拒んだ。1966年、NATOの結成以来の軍事機構から脱退し、国内のアメリカ軍基地を退去させた。
1968年5月、学生と労働者の大規模な抗議が国を揺るがした(五月革命)。ド・ゴールは一時ひそかに西ドイツの駐留軍を訪ねて姿を消し、周囲を慌てさせたが、戻って議会を解散し、選挙で圧勝した。しかし翌1969年、地方制度などの改革を問う国民投票で敗れると、翌日の未明に辞任を発表してコロンベへ帰った。

1970年11月9日、80歳の誕生日を目前に、コロンベの自宅で倒れて亡くなった。遺言で国葬を断り、村の墓地に娘アンヌと並んで葬られた。アンヌは障害を持って生まれ、20歳で亡くなっていた。後継の大統領ポンピドゥーは、国民に「フランスは未亡人になった」と告げた。強すぎる大統領の仕組みは今も批判を受けるが、彼が作った第五共和政は、いまもフランスの国の形である。