概要
サイパン島の守りが危うくなり、本土への空襲が避けられなくなった1944年6月30日、政府は、都市の国民学校の3年生から6年生の子どもを地方へ疎開させることを決めた。親類を頼れない子どもたちは、学校ごとに集団で、農村の寺や旅館に移った。8月から、東京や大阪などの十数の都市から、四十万人を超える子どもが親元を離れた。食べ物は乏しく、子どもたちはひもじさと寂しさに耐えた。沖縄から九州へ子どもを運ぶ対馬丸は、8月22日、潜水艦に沈められ、多くの子どもが死んだ。疎開先から帰ったとき、空襲で家族を失っていた子どもも少なくなかった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
1944年6月、アメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸した。サイパンが落ちれば、そこから飛び立つ大型の爆撃機B29が、日本の本土のほとんどの都市を空襲できるようになる。政府は、都市の人々を地方へ移す疎開を急いだ。6月30日、政府は、学童疎開を進めるための要綱を閣議で決めた。
対象は、東京や大阪、名古屋など、空襲の危険が大きいとされた都市の国民学校の、3年生から6年生の子どもたちだった。地方に親類のいる子どもは親類のもとへ移り(縁故疎開)、頼る先の無い子どもは、学校ごと、先生に付き添われて、地方の町や村の寺や旅館、公会堂などに集団で移った(集団疎開)。8月4日、東京の子どもたちを乗せた最初の列車が出発し、その年のうちに、集団疎開だけで四十万人を超える子どもたちが親元を離れた。1年生と2年生、のちには1945年に入って低学年の子どもたちも加えられた。
疎開先の暮らしは厳しかった。食べ物は日に日に乏しくなり、雑炊やすいとん、芋ばかりの食事で、子どもたちはいつもお腹をすかせていた。シラミやノミに悩まされ、冬は寒さに震えた。親からの手紙を待ちわび、夜には布団の中で泣く子もいた。上級生のいじめや、地元の子どもたちとの軋轢もあった。先生たちは、子どもたちを守り、食べ物を確保するために奔走した。
沖縄からも、子どもたちを九州へ疎開させる船が出た。1944年8月22日、那覇から長崎へ向かっていた疎開船、対馬丸は、鹿児島県の悪石島の近くで、アメリカの潜水艦の魚雷を受けて沈んだ。乗っていたおよそ千八百人のうち、千五百人近くが死んだ。そのうち八百人近くは、学童疎開の子どもたちだった。
1945年3月、東京では、卒業を控えた6年生たちが、中学校へ進むために疎開先から帰ってきた。その直後の3月10日の未明、東京の下町は大空襲を受け(東京大空襲)、帰ったばかりの子どもたちの多くが命を落とした。戦争が終わって疎開先から戻ったとき、空襲で家を焼かれ、親や兄弟を失っていた子どもも少なくなかった。親を失った子どもたちは「戦災孤児」となり、戦後の町に投げ出された(児童福祉法)。