← 地図で見る
Event / できごと

学童疎開

Evacuation of schoolchildren in Japan
AD1944年6月30日
重要度 3
大英帝国ソビエト連邦中国の軍閥イギリス領インド帝国モンゴルチベット日本シャムフランス領インドシナラオスフィリピンカンボジアコーチシナAD1944年6月30日東京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1944年6月30日の版図を描いています(13勢力)。

概要

サイパン島の守りが危うくなり、本土への空襲が避けられなくなった1944年6月30日、政府は、都市の国民学校の3年生から6年生の子どもを地方へ疎開させることを決めた。親類を頼れない子どもたちは、学校ごとに集団で、農村の寺や旅館に移った。8月から、東京や大阪などの十数の都市から、四十万人を超える子どもが親元を離れた。食べ物は乏しく、子どもたちはひもじさと寂しさに耐えた。沖縄から九州へ子どもを運ぶ対馬丸は、8月22日、潜水艦に沈められ、多くの子どもが死んだ。疎開先から帰ったとき、空襲で家族を失っていた子どもも少なくなかった。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

1944年6月、アメリカ軍がマリアナ諸島のサイパン島に上陸した。サイパンが落ちれば、そこから飛び立つ大型の爆撃機B29が、日本の本土のほとんどの都市を空襲できるようになる。政府は、都市の人々を地方へ移す疎開を急いだ。6月30日、政府は、学童疎開を進めるための要綱を閣議で決めた。

対象は、東京や大阪、名古屋など、空襲の危険が大きいとされた都市の国民学校の、3年生から6年生の子どもたちだった。地方に親類のいる子どもは親類のもとへ移り(縁故疎開)、頼る先の無い子どもは、学校ごと、先生に付き添われて、地方の町や村の寺や旅館、公会堂などに集団で移った(集団疎開)。8月4日、東京の子どもたちを乗せた最初の列車が出発し、その年のうちに、集団疎開だけで四十万人を超える子どもたちが親元を離れた。1年生と2年生、のちには1945年に入って低学年の子どもたちも加えられた。

疎開先の暮らしは厳しかった。食べ物は日に日に乏しくなり、雑炊やすいとん、芋ばかりの食事で、子どもたちはいつもお腹をすかせていた。シラミやノミに悩まされ、冬は寒さに震えた。親からの手紙を待ちわび、夜には布団の中で泣く子もいた。上級生のいじめや、地元の子どもたちとの軋轢もあった。先生たちは、子どもたちを守り、食べ物を確保するために奔走した。

沖縄からも、子どもたちを九州へ疎開させる船が出た。1944年8月22日、那覇から長崎へ向かっていた疎開船、対馬丸は、鹿児島県の悪石島の近くで、アメリカの潜水艦の魚雷を受けて沈んだ。乗っていたおよそ千八百人のうち、千五百人近くが死んだ。そのうち八百人近くは、学童疎開の子どもたちだった。

1945年3月、東京では、卒業を控えた6年生たちが、中学校へ進むために疎開先から帰ってきた。その直後の3月10日の未明、東京の下町は大空襲を受け(東京大空襲)、帰ったばかりの子どもたちの多くが命を落とした。戦争が終わって疎開先から戻ったとき、空襲で家を焼かれ、親や兄弟を失っていた子どもも少なくなかった。親を失った子どもたちは「戦災孤児」となり、戦後の町に投げ出された(児童福祉法)。

同じ時代のできごと

『ラプソディ・イン・ブルー』AD1924年2月12日甲子園球場AD1924年8月1日同潤会アパート1924年5月揺れに耐える建物の決まりAD1924年ラジオの時報AD1924年2月5日フラッパーとモダンガールAD1920年代『女工哀史』AD1925年治安維持法AD1925年4月22日
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1944年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります
20世紀以降のできごと一覧 →人物一覧 →
歴史データベースとは? →