できごと

レニングラード包囲

Siege of Leningrad
AD1941年9月8日
重要度 5
レニングラード包囲に関わる図版:Anti aircraft Leningrad 1941
Anti aircraft Leningrad 1941 Wikimedia Commons Boris Kudoyarov · Public domain

概要

872日。最初の冬、パンは1日125グラム。100万人以上が餓死した。凍ったラドガ湖の上の「命の道」。ショスタコーヴィチが第7交響曲を書き、飢えた楽団が1942年8月に街で演奏した。1944年1月、解かれた。

場所

サンクトペテルブルク
59.93°N 30.36°E · ロシア

本文

レニングラードは、18世紀にピョートル大帝がネヴァ川の河口に築いた帝都サンクトペテルブルクである(サンクトペテルブルクの建設)。1917年の革命の舞台となり、1924年、レーニンの死後にその名をとって改名された(三度、名を変えた都市)。首都はモスクワに移っていたが、ソ連で2番目の大都市であり、造船や兵器の工場が集まる工業の中心でもあった。

1941年6月22日、ドイツはソ連に攻め込んだ(独ソ戦の始まり)。北へ向かったドイツ軍は、バルト三国を一気に抜けて、夏の終わりにはレニングラードに迫った。北からは、前年の冬戦争で領土を奪われたフィンランドの軍が南下した。市民は郊外に出て対戦車壕を掘り、工場の労働者は民兵として前線に送られた。だが、市民と子どもを町の外へ逃がす作業は遅れた。

レニングラードへ食糧を輸送する氷上列車
レニングラードへ食糧を輸送する氷上列車Wikimedia Commons Public domain

9月8日、ドイツ軍はラドガ湖のほとりの町シュリッセリブルクを取った。これで、レニングラードとソ連のほかの地域を結ぶ陸の道は、すべて断たれた。町の中には、避難してきた人々を含めて250万人を超える市民が取り残された。同じ日、ドイツの空襲で、町の食糧を蓄えていたバダエフ倉庫が燃えた。溶けた砂糖が地面にしみ込み、のちに飢えた人々はその土を掘って煮て食べたと伝えられる。もっとも、倉庫の食糧は町全体のわずか数日分だったともいわれ、飢えの本当の原因は包囲そのものにあった。

ドイツの指導部は、この町を攻め落とすつもりがなかった。市街戦で兵を失うより、囲んで飢えさせるほうがよいと考えたのである。9月の末に出された海軍の指令には、総統はペテルブルクの町を地上から消し去ることを決めた、降伏の申し出があっても受け入れない、と書かれていた。数百万人の市民を養う責任を負いたくなかったのである。ドイツ軍は町を遠巻きに囲み、毎日のように砲弾と爆弾を撃ち込んだ。

1941年、レニングラード近郊で燃える家屋と教会の前のドイツ兵
1941年、レニングラード近郊で燃える家屋と教会の前のドイツ兵Wikimedia Commons Ebert Georg · Public domain

食べ物の配給は、何度も減らされた。1941年11月20日からは、工場で働く者のパンが1日250グラム、それ以外の勤め人や子ども、老人は125グラムになった。薄い一切れほどの量である。しかもそのパンには、小麦粉のほかに、木のセルロースや綿の実の搾りかす、麦の殻などが混ぜられていた。人々は犬や猫を食べ、壁紙をはがしてその糊を煮て食べ、革のベルトを煮た。冬は記録的な寒さで、零下30度を下回る日もあった。水道は凍り、電気は止まり、市電も動かなくなった。人々はネヴァ川の氷に穴をあけて水を汲み、家具や本を燃やして暖をとった。

12月から翌年の2月にかけて、死者は1日に数千人にのぼった。人々は子どもの橇に遺体を載せて墓地まで引いていったが、やがてその力もなくなり、遺体は通りや部屋に置かれたままになった。飢えのあまり人の肉を食べる者も現れ、その罪で逮捕された人は、記録に残るだけで2000人を超える。

1941年7月、対戦車壕を掘るレニングラードの女性たち
1941年7月、対戦車壕を掘るレニングラードの女性たちWikimedia Commons Леонид Великжанин · Public domain

町を救う細い道は、凍ったラドガ湖の上にあった。11月の下旬、湖の氷が厚くなると、湖の東岸のソ連側の土地から、氷の上を30キロほど横切ってトラックで食糧を運ぶ道が開かれた。氷が割れてトラックごと沈むことも、ドイツの飛行機に襲われることもあった。人々はこの道を「命の道」と呼んだ。帰りのトラックには、子どもや病人や老人が乗せられて町の外へ運ばれた。1942年の春までに、50万人ほどがこの道で町を出たとされる。

この冬を記録した、一人の少女の日記がある。11歳のターニャ・サヴィチェワは、姉のノートの空いたページに、家族が死んだ日と時刻を一人ずつ書きとめていった。姉が12月28日に、祖母が1月25日に、兄が3月17日に。おじが二人、そして5月13日に母が。最後のページには、サヴィチェフ家は死んだ、みんな死んだ、残ったのはターニャだけ、と書かれている。ターニャは町の外へ避難したが、1944年に病で亡くなった。日記はいま、町の歴史博物館に保管されている。

1942年、イマトラで会談するヒトラーとフィンランドのマンネルヘイム元帥、リュティ大統領
1942年、イマトラで会談するヒトラーとフィンランドのマンネルヘイム元帥、リュティ大統領Wikimedia Commons Kalle Sjöblom · Public domain

作曲家のドミトリー・ショスタコーヴィチは、包囲の始まったレニングラードで交響曲第7番を書きはじめ、10月に町の外へ避難させられたあと、12月に書き上げた。「レニングラード」と呼ばれるこの曲は、1942年の春からソ連の各地や外国で演奏された。1942年8月9日、包囲されたレニングラードの楽団が、町のフィルハーモニーの大ホールでこの曲を演奏した。ラジオ局の交響楽団で生き残っていた楽員はわずかで、前線の兵士のなかから楽器を弾ける者が呼び戻された。飢えでやせ細った奏者たちは、練習の途中で倒れることもあった。演奏の当日、ソ連軍は先にドイツ軍の砲兵陣地に砲撃を加え、演奏会を砲撃から守った。演奏はラジオで流され、町の拡声器を通して、ドイツ軍の塹壕にも届いたという。

1943年1月、ソ連軍はラドガ湖の南岸でドイツ軍の囲みを破り、幅10キロほどの細い陸の回廊を開いた。そこに急いで鉄道が敷かれ、食糧の状況はようやく好転した。それでも砲撃は続いた。包囲が完全に解かれたのは、1944年1月27日である。9月8日から数えて872日。町では祝砲が撃たれた。

1942年のレニングラード包囲下、PPD-40短機関銃を組み立てる10代の少女2人
1942年のレニングラード包囲下、PPD-40短機関銃を組み立てる10代の少女2人Wikimedia Commons Sergey Strunnikov · Public domain

この包囲で、どれだけの人が死んだのかは正確には分からない。ソ連は戦後、市民の死者を63万人あまりと発表したが、いまでは80万人から100万人を超えると推計されている。その大部分が飢えによる死だった。一つの都市で、これほど多くの人が飢えで死んだ例は、近代の歴史に例がない。包囲のさなか、町の植物の研究所では、職員たちが飢えながらも、保管していた種の袋に手をつけなかった(包囲下の種子)。

戦後、レニングラードは「英雄都市」の称号を与えられた。だが、包囲を戦い抜いた町の党の指導者たちは、1949年からヨシフ・スターリンのもとで「レニングラード事件」として粛清され、その多くが銃殺された。町の自立と人気をスターリンが警戒したためと考えられている。包囲の記憶を伝える博物館も、一時閉鎖された。町の北東のピスカリョフスコエ墓地には、包囲で死んだ数十万の人々が大きな塚の下に眠っている。その記念の壁には、包囲の中でラジオから詩を読み続けた詩人オリガ・ベルゴリツの、誰も忘れられず、何も忘れられない、という言葉が刻まれている。

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