できごと

スターリングラードの戦い

Battle of Stalingrad
AD1942年8月23日
重要度 5
スターリングラードの戦いに関わる図版:Расчет советской 76,2-мм пушки ЗиС-3 ведет огонь в Сталинграде. Ноябрь 1942 г
Расчет советской 76,2-мм пушки ЗиС-3 ведет огонь в Сталинграде. Ноябрь 1942 г Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

ヴォルガの街で家ごとに戦った。11月、ジューコフが両側から包囲し、第6軍33万人が袋に入った。パウルスは1943年2月2日に降伏した。捕虜9万人のうち帰ったのは5000人。死傷者は両軍と市民で200万。ドイツが東で退き始めた場所。

場所

スターリングラード(ヴォルゴグラード)
48.71°N 44.51°E · ロシア

関わった人(2)

ジューコフAD1896年12月1日–AD1974年6月18日 · 包囲を指揮パウルスAD1890年9月23日–AD1957年2月1日 · 降伏

本文

1942年8月23日、ヴォルガ川の西岸に細長く延びる工業都市スターリングラードに、ドイツ空軍の大編隊が襲いかかった。爆弾と焼夷弾で街は炎に包まれ、一日で数万の市民が死んだとも言われる。この日から翌1943年2月までの5か月あまり、街は第二次世界大戦で最も凄惨な戦場になった。ドイツの第6軍は廃墟の中で包囲され、降伏した。ドイツ軍が一つの軍をまるごと失ったのは、この戦争で初めてのことだった。

1941年6月に始まった独ソ戦(独ソ戦の始まり)で、ドイツ軍はモスクワの手前で止められた。翌1942年の夏、ヒトラーは攻撃の重点を南へ移した。「青作戦」と名づけられたこの攻勢の狙いは、カフカス地方の油田だった。石油がなければ戦車も飛行機も動かない。そしてその側面を守るために、ヴォルガ川の要衝スターリングラードを押さえる必要があった。この街は、もとはツァリーツィンといい、ロシア内戦のときにヨシフ・スターリンが防衛に関わったことから、1925年に彼の名に改められていた。ヒトラーにとってもスターリンにとっても、この街の名は、ただの地名以上の意味を持つようになっていく。

スターリングラードの『子供の輪舞』噴水。戦闘後の廃墟に残る
スターリングラードの『子供の輪舞』噴水。戦闘後の廃墟に残るWikimedia Commons Sergey Strunnikov · Public domain

7月28日、スターリンは命令第227号を出した。「一歩も退くな」。許可なく退いた者は、後方に置いた部隊が撃つ。敗走が続いていたソ連軍に、退却はもう許されなかった。パウルス将軍の率いるドイツ第6軍は、8月下旬にヴォルガの岸に達し、9月から市街へ攻め込んだ。

市街を守ったのはチュイコフ将軍の第62軍だった。チュイコフは、ドイツ軍の強みである砲兵と空軍を封じるため、敵にできるだけ近づいて戦うよう命じた。敵に抱きつけ、という言葉が残っている。双方の兵が数十メートル、ときには同じ建物の上の階と下の階に分かれて向き合っていれば、ドイツ軍は味方を巻き込むのを恐れて爆撃も砲撃もできない。戦いは、通りごと、建物ごと、階ごと、部屋ごとの殺し合いになった。ドイツ兵はこれを「ネズミの戦争」と呼んだ。

当時の第62軍司令部。左から第62軍参謀長ニコライ・クルイロフ、第62軍司令官ワシーリー・チュイコフ、軍事評議委員クジマ・グロフ(ロシア語版)、第13親衛狙撃師団司令官アレクサンドル・ロジムツェフ
当時の第62軍司令部。左から第62軍参謀長ニコライ・クルイロフ、第62軍司令官ワシーリー・チュイコフ、軍事評議委員クジマ・グロフ(ロシア語版)、第13親衛狙撃師団司令官アレクサンドル・ロジムツェフWikimedia Commons Леонид Леонидов (ТАСС) · CC BY 4.0

街の中心を見下ろすママエフの丘は、何度も持ち主を変えた。巨大な穀物倉庫には、少数のソ連兵が長くたてこもった。軍曹パヴロフらが守った4階建てのアパートは、2か月近く持ちこたえ、「パヴロフの家」として知られるようになる。北部の大工場地帯、トラクター工場や「赤い十月」製鉄所では、工場の中で戦車の修理を続けながら戦いが行われた。ソ連軍の補給と増援は、すべて東岸からヴォルガ川を渡って運ばれた。渡し船は夜に動いたが、ドイツの砲撃と空襲で多くが沈んだ。ヴォルガの向こうに我々の土地はない、という合言葉が兵士たちの間で唱えられた。廃墟には狙撃兵が潜み、ソ連の狙撃兵ザイツェフは英雄として宣伝された。

11月までに、ドイツ軍は街のおよそ9割を手に入れた。だがソ連軍は、ヴォルガの岸に沿った細い帯をどうしても手放さなかった。そのあいだに、ジューコフとヴァシレフスキーは、大きな反撃の準備を進めていた。ドイツ第6軍は街の奪い合いに引きずり込まれ、その長い側面は、装備の劣るルーマニア軍などが守っていた。

クルト・ロイバーによる「スターリングラードの聖母」
クルト・ロイバーによる「スターリングラードの聖母」Wikimedia Commons photo by JoJan · Public domain

11月19日、ソ連軍は街の北西で「天王星」作戦を始め、ルーマニア第3軍の陣を突き破った。翌20日には南からも攻め、ルーマニア第4軍を崩した。南北から進んだソ連の部隊は、23日、ドン川のほとりのカラチの近くで手をつないだ。第6軍を中心に、25万から30万を超える兵が包囲の輪の中に閉じ込められた。

パウルスは、包囲を破って脱出することを願い出た。だがヒトラーは許さなかった。空軍の長ゲーリングが、包囲された軍に空から物資を届けられると請け合ったからである。軍が生きていくには一日に数百トンの物資が要ったが、冬の悪天候とソ連の対空砲火の中で、実際に届いたのは、多くの日で100トン前後にすぎなかった。12月、マンシュタイン元帥が外から救出に向かい、包囲の輪から50キロほどのところまで迫った。だがパウルスは、ヒトラーの命令がないまま燃料も乏しい状態で打って出ることをためらい、救出の部隊もやがて押し戻された。同じころ、ソ連軍はさらに西でイタリア軍を打ち破り、救出の望みは完全に消えた。

市街に転がる兵士の遺体
市街に転がる兵士の遺体Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

包囲の中の兵たちは、零下30度の寒さの中で、飢えと凍傷とチフスに苦しんだ。馬はすべて食べ尽くされた。1943年1月10日、ソ連軍は包囲された軍を片付ける最後の攻撃を始めた。1月30日、ヒトラーはパウルスを元帥に昇進させた。それまでドイツの元帥が降伏したことはない、という含みで、自決を促したものと受け取られた。だが翌31日、パウルスは司令部を置いていたデパートの地下室でソ連軍に降伏した。2月2日、北の工場地帯に残っていた部隊も降伏し、戦いは終わった。

およそ9万1千人のドイツ兵などが捕虜になった。彼らの多くは収容所への行軍や収容所で、飢えと病で死んでいった。1955年までに祖国に帰ることができたのは、そのうち5千人ほどだった。ドイツでは3日間の喪が布告され、ラジオは厳かな音楽を流し続けた。

捕虜となり強制収容所まで歩かされるドイツ兵たち。
捕虜となり強制収容所まで歩かされるドイツ兵たち。Wikimedia Commons Леонид Великжанин · Public domain

戦いの犠牲は途方もなかった。ソ連軍の死傷者は100万人を超え、ドイツとその同盟国の損害もそれに迫る。市民の死者も数万人にのぼった。両軍と市民を合わせた死傷者は、200万人前後と推計されている。

スターリングラードは、独ソ戦の転換点として記憶されている。ドイツ軍はこのあともう一度、1943年夏のクルスクの戦いで大攻勢に出たが、主導権を取り戻すことはできなかった。同じ冬、北アフリカではエル・アラメインの戦い、太平洋ではガダルカナルの戦いで、枢軸国はそれぞれ押し返され始めていた。

クルスクの戦いに関わる図版:Battle of Kursk (map)
クルスクの戦いWikimedia Commons Public domain

降伏したパウルスはソ連の捕虜としてヒトラーを批判する立場に転じ、戦後はニュルンベルク裁判に証人として立った。1953年に釈放されて東ドイツのドレスデンに住み、そこで世を去った。チュイコフは後にベルリンの攻略に加わり、ソ連の元帥となった。1982年に死ぬと、彼の遺志により、自分の兵たちが眠るママエフの丘に葬られた。

スターリンの名を持つ街は、スターリン批判のあと、1961年にヴォルゴグラードと改められた。ママエフの丘には1967年、剣を掲げて兵士たちを呼ぶ女性の巨大な像「母なる祖国が呼んでいる」が建てられた。剣の先までの高さは85メートルにおよぶ。丘の土の中からは、今も砲弾のかけらや銃弾が見つかる。

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