クルスクの戦い

概要
ドイツはティーガーとパンターを待って攻めた。ソ連は知っていて、地雷と対戦車砲を8列に敷いて待った。プロホロフカで戦車が数百両ぶつかった。史上最大の戦車戦。ヒトラーは8日で止めた。それからドイツは、東で一度も攻めなかった。
場所
51.73°N 36.19°E · ロシア
本文
1943年7月5日の未明、ロシア南部の町クルスクを囲む前線で、ドイツ軍が攻撃を始めた。ドイツが東部戦線で仕掛けた最後の大攻勢、「ツィタデレ(城塞)」作戦である。ソ連軍はこの攻撃を事前に知っており、深く築いた陣地で待ち構えていた。戦いは数週間で終わり、そのあとドイツ軍は、東部戦線で二度と大きな攻勢に出ることができなかった。スターリングラードの戦いとともに、1941年に始まった独ソ戦(独ソ戦の始まり)の流れを決めた戦いとされる。
1943年2月、スターリングラードでドイツの第6軍が降伏すると、ソ連軍は勢いに乗って西へ進んだ。だが南方の指揮を執るドイツの元帥マンシュタインは、伸びきったソ連軍に鮮やかな反撃を加え、3月にはウクライナの大都市ハリコフを取り返した。春の雪解けで泥の季節が来て、両軍の動きが止まったとき、前線にはクルスクを中心に、ドイツ側へ大きく突き出した部分が残された。幅およそ200キロ、奥行き150キロほどの突出部である。

ドイツの指導部は、この突出部の付け根を北と南から挟み撃ちにして、中のソ連軍をまとめて包囲しようと考えた。スターリングラードの敗北で失った主導権を取り戻すための作戦だった。マンシュタインらは、ソ連軍が態勢を立て直す前に、できるだけ早く攻めるべきだと主張した。だがヒトラーは攻撃を何度も延ばした。新型の重戦車ティーガー、中戦車パンター、駆逐戦車フェルディナントが前線に十分そろうのを待ったのである。攻撃は5月から6月、そして7月へとずれ込んだ。ヒトラー自身、装甲部隊の総監グデーリアンに、この攻撃のことを考えると胃が痛むと漏らしたと、グデーリアンは回想している。
その時間を、ソ連はむだにしなかった。イギリスがドイツの暗号を解読して得た情報、スイスを拠点とする諜報網からの報告、捕虜の証言、空からの偵察。ソ連の指導部は、ドイツ軍がどこをいつ攻めるかをかなり正確につかんでいた。副最高司令官のジューコフらは、ヨシフ・スターリンに、こちらから先に攻めるのではなく、まず守りを固めて敵の戦車をすり減らし、そのあとで反撃に出るべきだと進言した。スターリンはこれを受け入れた。

突出部の中には、何本もの防御線が、奥へ奥へと幾重にも築かれた。塹壕と対戦車壕が掘られ、数え切れないほどの地雷が埋められ、対戦車砲は数門ずつまとめて置かれて、戦車を十字砲火で狙えるように配置された。ソ連軍は兵力でも戦車の数でも、攻めるドイツ軍を上回っていた。
7月5日、攻撃が始まった。北からはモーデルの第9軍が攻め込んだが、ソ連の陣地にぶつかって、10キロほど進んだところで動けなくなった。南からはホトの第4装甲軍が、SSの精鋭の装甲師団を先頭に攻め、防御線をいくつも破って、30キロ以上食い込んだ。ティーガーの88ミリ砲は遠くからソ連の戦車を撃ち抜き、正面から撃ち合えばほとんど負けなかった。だがその数は少なかった。期待のパンターは、急いで前線に送られたために故障が相次ぎ、多くが戦う前に動けなくなった。
7月12日、南の前線のプロホロフカ村の近くで、ソ連の第5親衛戦車軍がSS装甲軍団に向かって正面から反撃に出た。数百両の戦車が入り乱れて戦ったこの戦いを、ソ連は長いあいだ、両軍あわせて1500両がぶつかった史上最大の戦車戦として宣伝してきた。ソ連の戦車は、敵の長い砲の射程を避けるため、全速で距離を詰め、至近距離で撃ち合ったと語られた。だが冷戦の後、ドイツ側の記録などが詳しく調べられると、実際の戦車の数はそれよりかなり少なく、ソ連軍の損害がドイツ軍を大きく上回っていたことが明らかになった。プロホロフカは、戦術の上ではソ連の敗北に近かった。それでも、ドイツ軍がその先へ進めなかったことに変わりはない。
7月10日には、米英の連合軍が地中海のシチリア島に上陸していた。イタリアが崩れかけるなか、ヒトラーは7月13日、マンシュタインらを呼んで作戦の中止を告げた。マンシュタインは、南ではあと少しでソ連の予備兵力を叩けると訴えたが、聞き入れられなかった。北ではすでに7月12日から、ソ連軍が突出部の北にあるオリョールに向けて大反撃を始めていた。8月3日には南でも反撃が始まり、8月5日にオリョールとベルゴロドが解放された。モスクワでは、この勝利を祝って、戦争が始まってから初めての祝砲が撃たれた。8月23日、ハリコフは最終的にソ連の手に戻った。この町が戦争のあいだに持ち主を変えたのは、これで4度目だった。

損害は双方とも大きかった。ソ連軍の死傷者は、防御戦と反撃をあわせて80万人を超え、失った戦車も数千両にのぼったとされる。ドイツ軍の損害はそれよりかなり少なかった。数字の上では、ソ連はドイツの何倍も失って勝ったのである。しかしソ連には、失ったものを埋める工場と人があり、ドイツにはなかった。ドイツの装甲部隊は、この戦いで補いのきかない精鋭を失い、グデーリアンは戦後、装甲部隊が二度と立ち直れなかったと書いている。
クルスクのあと、主導権は完全にソ連の手に移った。ソ連軍はこの年の秋にドニエプル川を越えてキエフを取り戻し、翌1944年には大攻勢でドイツ軍を東ヨーロッパから押し出していく。ドイツ軍はその後も局地的な反撃はしたが、戦略の上で東部戦線の流れを変えるような攻勢に出ることは、二度となかった。

ソ連とロシアでは、この戦いは「火の弧」と呼ばれる。突出部を囲んだ前線の形からきた名である。プロホロフカの野には1995年、戦いを記念する鐘楼と教会が建てられた。ロシアでは、モンゴルの軍勢と戦ったクリコヴォの戦い、ナポレオンと戦ったボロジノと並べて、プロホロフカを祖国の運命を決めた「三つの戦場」の一つと呼ぶことがある。