ハイレ・セラシエ1世
概要
イタリアの侵略を国際連盟で訴え、聞き入れられなかった。その演説はいま集団安全保障の失敗の記録として読まれる。
所属
エチオピア帝国関わったできごと(2)
イタリアのエチオピア侵攻1935年 · 国際連盟で訴えたハイレ・セラシエの国際連盟演説AD1936年6月30日 · 当人本文
1892年7月23日、エチオピア東部の古い交易都市ハラールの近くで生まれた。幼名はタファリ・マコンネンという。父のラス・マコンネンは皇帝メネリク2世のいとこで、ハラールの総督を務め、アドワの戦いでも一軍を率いた有力者だった。タファリはハラールでフランス人の修道士からフランス語と近代の学問を学び、10代のうちに地方の総督に任じられている。

1913年にメネリク2世が亡くなると、帝位は孫のイヤスに渡った。だがイヤスはイスラームに近づいていると疑われ、キリスト教の教会と貴族たちの反発を招いた。1916年、イヤスは退位させられ、メネリクの娘ゾウディトゥが女帝に、タファリが摂政と帝位継承者になった。称号の「ラス」を付けて、ラス・タファリと呼ばれた。
摂政として、タファリはエチオピアを国際社会の一員にすることに力を注いだ。1923年、エチオピアは国際連盟に加盟した。加盟の条件として、国内に根強く残っていた奴隷制と奴隷の売買をなくすことを約束させられ、タファリは段階的な廃止の令を出した。翌年にはヨーロッパを歴訪し、近代の制度や技術を見て回った。学校を開き、新聞を出させ、若者を海外に留学させた。

1930年、女帝が亡くなり、タファリは即位して皇帝ハイレ・セラシエ1世となった。「三位一体の力」を意味する名である。翌年、エチオピアで初めての成文憲法を定めた。議会を置いたが、権力は皇帝に集める内容だった。
その頃、大西洋の向こうのジャマイカでは、ラス・タファリの即位を、アフリカに黒人の王が現れるという予言の成就と受け止める人々がいた。そこから生まれた信仰運動が、ラスタファリと呼ばれる。彼らにとってハイレ・セラシエは神の化身であり、救い主だった。皇帝自身はエチオピア正教の信徒で、その崇拝を受け入れはしなかったが、否定もしなかった。

1935年10月、ベニート・ムッソリーニのイタリアが、エリトリアとソマリランドの植民地から攻め込んできた(イタリアのエチオピア侵攻)。40年前のアドワの敗北への雪辱でもあった。イタリア軍は飛行機から毒ガスを撒き、兵士だけでなく村人や家畜までを殺した。エチオピア軍は旧式の武器で抵抗したが、翌年の春に大敗し、首都アディスアベバに迫られた。1936年5月、ハイレ・セラシエは国を出て、亡命の道を選んだ。
1936年6月30日、彼はジュネーヴの国際連盟の総会の壇上に立った。イタリアの記者たちが口笛と野次で妨害するなか、アムハラ語で演説し、毒ガスが降り注いだ様子を具体的に語った。そして、加盟国が侵略された国を守ると約束した連盟の取り決め(集団安全保障)はどうなったのか、と問いかけた。この日の自分たちの運命は、明日はほかの小さな国々の運命になる、という趣旨の訴えは、のちに「今日は私たち、明日はあなたたち」という言葉で語り継がれる(国際連盟の発足)。だが連盟は動かなかった。イタリアに科していた経済制裁は、演説からわずか2週間ほどで解除が決まった。3年後、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。

皇帝はイギリスのバースに家を借りて、5年間の亡命生活を送った。1940年にイタリアがイギリスに宣戦すると、イギリスは彼を支援した。1941年、イギリス軍とエチオピアの抵抗の戦士たちとともにイタリア軍を破り、5月5日、ハイレ・セラシエはちょうど5年ぶりにアディスアベバへ戻った。
戦後の皇帝は、アフリカの長老として世界に重んじられた。アメリカと結び、国連の平和維持活動に兵を送り、各国を訪問した。1963年、アディスアベバでアフリカの独立国の首脳を集め、アフリカ統一機構の設立に力を尽くした(アフリカ統一機構の設立)。本部はアディスアベバに置かれ、いまのアフリカ連合に引き継がれている。1966年にジャマイカを訪れたときには、空港に十万人とも言われる人々が詰めかけた。
一方で、国内の改革は遅れた。土地の多くは貴族と教会のもので、農民は重い小作料に苦しんでいた。1960年、皇帝の外遊中に近衛部隊がクーデターを企てたが、失敗した。1962年にはエリトリアを併合し、長い独立戦争の火種を作った。学生たちは土地改革と民主化を求めて声を上げ続けた。
1973年、北部のウォロ地方で大飢饉が起き、数万から十数万人が死んだとされる。政府はその実態を隠そうとした。外国のテレビが飢える人々の映像と、宮廷の豪華な晩餐の映像を並べて放送すると、人々の怒りは頂点に達した。石油危機による物価の高騰も重なり、1974年、軍の若手将校たちの委員会「デルグ」が実権を握った。同年9月12日、80歳を超えた皇帝は廃位され、宮殿から小さな車で連れ出された。

翌1975年8月27日、幽閉されていた皇帝は83歳で亡くなった。デルグは病死と発表したが、のちに殺害されたと考えられるようになった。遺骨は宮殿の床下に埋められ、デルグの政権が倒れた後の1992年に見つかって、2000年にアディスアベバの大聖堂に改めて葬られた。
近代化を進め、侵略に国際社会の場で立ち向かい、アフリカの統一に尽くした皇帝。同時に、皇帝の権力を手放さず、改革を遅らせ、飢饉を見過ごした専制君主。その両方の姿が、エチオピアの人々の記憶に残っている。ジャマイカのラスタファリの人々は、いまも彼を救い主として崇めている。