できごと

バトル・オブ・ブリテン

Battle of Britain
AD1940年7月10日
重要度 5
バトル・オブ・ブリテンに関わる図版:Spitfire and He 111 during Battle of Britain 1940
Spitfire and He 111 during Battle of Britain 1940 Wikimedia Commons Australian armed forces · Public domain

概要

上陸の前に制空権を。ドイツ空軍が飛行場を、それからロンドンを、3か月爆撃した。レーダーとスピットファイアと、ポーランド人とチェコ人の操縦士。「これほど多くの人が、これほど少ない人に、これほど多くを負ったことはない」。ヒトラーは上陸をやめ、東を向いた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

チャーチルAD1874年11月30日–AD1965年1月24日 · 首相

本文

1940年の春、ドイツ軍はわずか6週間で西ヨーロッパを席巻した。5月末から6月初めにかけて、イギリス軍はダンケルクの浜から兵をかろうじて本国へ運び戻した(ダンケルクの撤退)が、戦車も大砲も置いてきた。6月22日、フランスは休戦に応じた。第二次世界大戦で、ドイツと戦い続ける国はイギリスだけになった。ヒトラーは、イギリスが講和に応じると見込んでいたが、5月に首相になったチャーチルはそれを拒んだ。

7月16日、ヒトラーはイギリス本土への上陸作戦の準備を命じる指令を出した。作戦名は「あしか」。指令には、上陸の前提として、イギリス空軍がドイツ軍の渡海に抵抗できないほど弱っていなければならない、と書かれていた。ドイツの海軍は、春のノルウェー攻略(ドイツのデンマーク・ノルウェー侵攻)で多くの艦を失っており、イギリス海軍の本国艦隊にまともに対抗できなかった。海峡の上の空を握れなければ、上陸の船団は沈められる。勝負は空軍に託された。空軍の総司令官ゲーリングは、短い期間でイギリスの戦闘機を一掃できると豪語した。

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Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

迎え撃つイギリス空軍の戦闘機軍団を率いていたのは、ダウディング大将である。寡黙で頑固な人物で、部下からは「スタッフィー(堅物)」とあだ名されていた。彼は戦争の前から、戦闘機を最も効率よく使う仕組みを作り上げていた。海岸沿いに並ぶレーダー基地が、海の向こうで編隊を組むドイツ機を遠くから捉える。レーダーの届かない内陸では、民間の観測隊が双眼鏡と耳で機影を追い、電話で知らせる。情報は司令部に集められ、作戦室の大きな地図の上で、女性の補助部隊員が敵味方の編隊を示す駒を棒で動かす。それを見て各地の飛行群が、どの飛行隊をいつ、どこへ上げるかを決める。戦闘機は空で敵を待つ必要がなく、来ると分かった敵に向けて必要な数だけ飛ばせばよかった。この仕組みは、ドイツ側が最後まで正しく理解しなかった強みだった。

数ではドイツが勝っていた。7月の時点で、ドイツ空軍はフランスとベルギー、ノルウェーの基地に、爆撃機と戦闘機を合わせて2500機ほどを並べていた。イギリスの戦闘機は、ハリケーンとスピットファイアを中心に600機あまりだった。ただ、ドイツの主力戦闘機メッサーシュミットBf109は航続距離が短く、フランスの基地からロンドンまで飛ぶと、上空にとどまれるのは10分ほどしかなかった。撃墜されたイギリスの操縦士は、落下傘で自分の国の畑に降りれば、また飛べた。ドイツの操縦士は、捕虜になった。

ロード・トレンチャード(英国空軍正装)
ロード・トレンチャード(英国空軍正装)Wikimedia Commons Public domain

戦いは7月10日、海峡を行く船団への攻撃から始まったとされる。8月13日、ドイツは「鷲の日」と名づけて本格的な攻撃を開始し、飛行場とレーダー基地を狙った。8月15日には、ノルウェーとデンマークからも北イングランドへ編隊が送られたが、迎撃されて大きな損害を出し、ドイツ側は1日で70機あまりを失った。8月18日には双方が大きな損害を出し、のちに「最も苦しい日」と呼ばれた。

イギリスが最も危うかったのは、8月の終わりから9月の初めである。ドイツはロンドン周辺の戦闘機の基地、ビギン・ヒルやケンリー、ホーンチャーチを繰り返し爆撃した。滑走路は穴だらけになり、作戦室が壊され、地上の人員にも死者が出た。足りなくなったのは、飛行機よりも操縦士だった。訓練を終えたばかりの若者が、数時間の飛行経験で戦場に送られた。この攻撃があと数週間続いていれば、ロンドン周辺の戦闘機軍団は持ちこたえられなかったかもしれない、と後に言われる。

マクスウェル・エイトキン(ビーヴァーブルック男爵)、第二次世界大戦中
マクスウェル・エイトキン(ビーヴァーブルック男爵)、第二次世界大戦中Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

転機は意外なところから来た。8月24日の夜、目標を見失ったドイツの爆撃機が、ロンドンの市街に爆弾を落とした。チャーチルは報復として、翌25日の夜、ベルリンへの爆撃を命じた。被害は小さかったが、ヒトラーは激怒し、9月4日の演説で、イギリスの都市を消し去ると宣言した。9月7日の午後、ドイツ空軍は攻撃の矛先をロンドンに変えた。ロンドン東部の港と工場地帯が燃え上がり、その夜から57夜続けて爆撃が続いた(ロンドン大空襲)。市民にとって地獄の始まりだったが、戦闘機軍団にとっては、飛行場を立て直す息継ぎになった。

9月15日の日曜日、ドイツはロンドンへ昼間の大空襲を二度かけた。この日、チャーチルはロンドンの西のアクスブリッジにある第11飛行群の作戦室にいた。戦況の地図を見ながら、首相は司令官のパーク少将に、予備の戦闘機はどれだけ残っているかと尋ねた。パークは、ありません、と答えたという。すべての飛行隊が空に上がっていた。ドイツの編隊は迎撃され、この日だけで60機ほどを失った。イギリスは当時、185機を撃墜したと発表したが、実際の数はそれよりずっと少なかった。それでも、ドイツ空軍がイギリスの空を握れないことは明らかだった。9月15日は、いまもイギリスで「バトル・オブ・ブリテンの日」として記念されている。

ポーリング(サセックス)のチェイン・ホーム・レーダー基地(1945年)
ポーリング(サセックス)のチェイン・ホーム・レーダー基地(1945年)Wikimedia Commons Royal Air Force official photographer · Public domain

9月17日、ヒトラーは「あしか作戦」を無期限に延期し、10月には翌年の春まで延ばした。そして翌年の春、ヒトラーが向かったのは東だった(独ソ戦の始まり)。昼間の空の戦いは10月の終わりまでに収まったが、夜の爆撃は1941年5月まで続き、ロンドンをはじめとするイギリスの都市で4万人を超える市民が死んだ。

戦いがまだ続いていた8月20日、チャーチルは下院で、人類の争いの歴史で、これほど多くの人が、これほど少ない人に、これほど多くを負ったことはない、と述べた。この「少数の人々」は、戦いに出撃した約3000人の戦闘機の操縦士を指す言葉になり、そのうち500人あまりが死んだ。彼らはイギリス人だけではなかった。祖国を追われたポーランド人の操縦士は140人あまりが加わり、ポーランド人の第303飛行隊は、この戦いで最も多くの撃墜を記録した飛行隊の一つになった。チェコスロヴァキア、ニュージーランド、カナダ、ベルギー、フランス、そして中立国アメリカからの志願者もいた。

イギリス空軍戦闘機軍団(1939〜1945年)
イギリス空軍戦闘機軍団(1939〜1945年)Wikimedia Commons Royal Air Force official photographer · Public domain

勝利の立役者ダウディングは、戦いの後の11月に戦闘機軍団の司令官の座を外された。戦闘機を大編隊で運用すべきだと主張する一派との論争に敗れたのである。この扱いは、いまも不当だったと語られることが多い。ドイツは負けたというより、勝てなかったのだ、という見方もある。いずれにしても、1940年の夏から秋にイギリスが持ちこたえたことで、アメリカが参戦したとき、ヨーロッパへ兵を送り込む足場が残された。ウェストミンスター寺院には、この戦いで死んだ操縦士たちを記念するステンドグラスの窓がある。

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