概要
1944年9月、連合軍はオランダ東部のアルンヘムのライン川の橋を取ろうとして失敗し、オランダの西半分はドイツの占領下に残された。ロンドンの亡命政府が鉄道員にストライキを呼びかけると、ドイツは仕返しに西部への食料の輸送を止めた。運河が凍る厳しい冬、アムステルダムやロッテルダムの配給は一日数百キロカロリーまで落ちる。人々はチューリップの球根やテンサイを食べ、薪を求めて空き家を壊した。二万人ほどが死んだ。1945年4月末、連合軍はドイツ軍と取り決めを結び、爆撃機から食料を落とした。この冬に母親の胎内にいた子どもたちは、のちの研究で、成人してからの病気のなりやすさを追われることになる。
場所
52.37°N 4.90°E · オランダ
本文
1944年9月、連合軍は、オランダのライン川などにかかる橋を空挺の兵で一気に押さえ、ドイツへの道を開こうとした。モントゴメリーの立てたマーケット・ガーデン作戦である。いちばん奥のアルンヘムの橋で作戦は失敗し、南の一部は解放されたが、アムステルダムやロッテルダム、ハーグのある西の半分は、ドイツの占領下に残った。
作戦に合わせて、ロンドンのオランダ亡命政府は、鉄道員に全国でのストライキを呼びかけた。ドイツの兵と物資の輸送を止めるためだった。ドイツは仕返しに、西部への食料の運び込みを禁じた。11月には船での輸送が一部認められたが、その冬は早くから厳しく冷え込み、食料を運ぶ運河が凍った。
西部の都市の配給は、一日千キロカロリーを切り、冬の終わりには数百キロカロリーにまで落ちた。人々は、チューリップの球根やテンサイを煮て食べ、自転車や手押し車で何十キロも先の農村へ食べ物を探しに行った。燃料もなく、空き家の床や窓枠、路面電車の線路の木まではがされた。飢えと寒さと病で、二万人ほどが死んだ。
1945年4月末、連合軍とドイツの占領軍は、空からの食料の投下を撃たないことで合意した。イギリスとアメリカの爆撃機が、低く飛んで、パンや缶詰の袋を野原に落とした。オランダが解放されたのは5月のはじめだった。
この冬に母親の胎内にいた子どもたちは、出生の記録がよく残っていたため、のちに長く追跡された。胎内で飢えを経験した人は、成人してから肥満や糖尿病、心臓の病気になりやすい傾向が見つかった。生まれる前の環境が、遺伝子の働き方に跡を残すという考えを支える、最も知られた研究の一つになった。