人物

フランクリン・ローズヴェルト

Franklin D. Roosevelt
AD1882年1月30日 – AD1945年4月12日(享年63)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

ニューディールで恐慌に対処し、大戦を指導した。終戦を見ずに死ぬ。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(5)

世界恐慌1929年 · ニューディールで対処ニューディールAD1933年3月9日 · 大統領炉辺談話AD1933年3月12日 · 語りかけた第二次世界大戦1939年 · 連合国側ヤルタ会談AD1945年2月4日 · 米

本文

1882年1月30日、ニューヨーク州ハイドパークの裕福な家に生まれた。父ジェームズは鉄道や石炭に投資する資産家で、母サラとは26歳の年の差があった。一人息子として、母に溺愛され、ほとんど離れることなく育った。家庭教師について学び、14歳で上流の子弟が通う寄宿学校に入った。ハーバード大学では学生新聞の編集長を務めている。

フランクリン・ルーズベルト米大統領の肖像(1944年)
フランクリン・ルーズベルト米大統領の肖像(1944年)Wikimedia Commons Leon Perskie · CC BY 2.0

遠い親戚に、のちの大統領セオドア・ローズヴェルトがいた。1905年、セオドアの姪エレノアと結婚し、式では大統領になっていたセオドアが花嫁の手を引いた。母サラはこの結婚に反対し、その後も若い夫婦の家の隣に住んで暮らしに口を出し続けた。

弁護士になった後、1910年にニューヨーク州の上院議員に選ばれた。ウッドロウ・ウィルソンの政権では海軍次官を務め、第一次世界大戦の海軍の拡張にかかわっている。1920年には民主党の副大統領候補になったが、選挙に敗れた。

1884年撮影。当時は男児でも長い髪形やスカートの着用は一般的であった(詳しくはブリーチングを参照)。
1884年撮影。当時は男児でも長い髪形やスカートの着用は一般的であった(詳しくはブリーチングを参照)。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1921年の夏、カナダの島の別荘で休暇を過ごしていたとき、高熱を出し、両脚が動かなくなった。39歳。ポリオと診断された。のちの研究では別の神経の病気だった可能性も指摘されている。ローズヴェルトは何年もかけて歩く訓練を続け、ジョージア州の温泉地ウォームスプリングスで療養し、そこに同じ病の人々のための施設を開いた。鉄の装具を脚につけ、息子の腕につかまれば、短い距離を立って歩くように見せられるようになった。

人々の前では、車椅子の姿をほとんど見せなかった。報道の側もそれを撮らないよう配慮し、残る何万枚もの写真のうち、車椅子に座った姿はごくわずかしかない。

1928年、ニューヨーク州知事に選ばれた。翌年10月、ニューヨークの株式市場が暴落し、世界恐慌が始まる。州知事として失業者の救済にいち早く取り組み、1932年の大統領選挙で、恐慌への対応が遅れた現職のフーヴァーに大差で勝った。

世界恐慌に関わる図版:Unemployed men queued outside a depression soup kitchen opened in Chicago by Al Capone, 02-1931 - NARA - 541927
世界恐慌Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

就任した1933年3月、国の失業率は25%近くに達し、銀行の取り付けが全国に広がっていた。就任演説で、恐れなければならない唯一のものは恐れそのものである、と述べた。翌日には全国の銀行を一時閉鎖し、健全な銀行から再開させた。

ニューディールで恐慌に対処し、大戦を指導した。就任から100日のあいだに、議会は銀行の改革、農産物の価格の支え、若者を植林や治水の仕事に雇う事業、テネシー川流域の開発公社など、十数本の大きな法律を通した。ニューディールと呼ばれる。1935年には、老後の年金と失業保険を定める社会保障法と、労働組合を認める法律ができた。公共事業で、道路や橋、学校、空港が造られ、作家や画家にまで仕事が与えられた。

ニューディールに関わる図版:New Deal collage
ニューディールWikimedia Commons LordHarris at English Wikipedia · Public domain

ラジオを使って、国民に直接語りかけた。炉辺談話と呼ばれる放送で、銀行がどう動いているかを、居間で話すような言葉で説明した。

すべてがうまくいったわけではない。最高裁判所はニューディールの法律のいくつかを憲法違反として無効にした。ローズヴェルトは判事の数を増やして自分の味方を送り込もうとしたが、議会と世論の強い反発を受けて失敗した。1937年には景気がまた悪くなり、失業率が恐慌の前の水準に戻ったのは、戦争が始まってからである。金持ちを敵に回した裏切り者、と上流の階級からは憎まれた。

父親とともに
父親とともにWikimedia Commons Public domain

ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、表向きは中立を保ちながら、イギリスを支えた。1940年、前例の無い3期目の当選を果たす。翌年には、武器を貸し出す法律でイギリスとソ連に大量の兵器を送り、8月にはチャーチルと大西洋の艦上で会談して、戦後の世界の原則を定めた憲章を発表した。

1941年12月7日、日本軍が真珠湾攻撃を行った。翌日、議会で、この日は汚辱の日として記憶されるだろう、と演説し、日本への宣戦を求めた。アメリカは参戦し、工業の力を戦争に注ぎ込んで、連合国の兵器庫になった。物理学者たちの手紙を受けて始めた原子爆弾の開発、マンハッタン計画も、この時期に本格化した。

真珠湾攻撃に関わる図版:Attack on Pearl Harbor Japanese planes view
真珠湾攻撃Wikimedia Commons Imperial Japanese Navy · Public domain

戦争の中で、重い決定もしている。1942年2月の大統領令で、西海岸に住む日系人およそ12万人が、家や財産を失って内陸の収容所へ送られた。その3分の2はアメリカ生まれの市民だった。ナチスの迫害を逃れようとするユダヤ人の難民を十分に受け入れなかったことも、のちに批判されている。

終戦を見ずに死ぬ。1944年、4期目の当選を果たしたが、体はすでに衰えていた。1945年2月、ヤルタ会談で、チャーチル、ヨシフ・スターリンと戦後の世界の分け方を話し合った。国際連合という名を考えたのはローズヴェルトで、その設立(国際連合の成立)を最後まで推し進めた。

ヤルタ会談に関わる図版:Yalta Conference (Churchill, Roosevelt, Stalin) (B&W)
ヤルタ会談Wikimedia Commons US government photographer · Public domain

1945年4月12日、ウォームスプリングスの別荘で、肖像画のモデルを務めていたさなかに、頭がひどく痛いと言って倒れ、脳出血で死んだ。63歳。ドイツが降伏する1か月足らず前だった。そばにいたのは、かつて関係がエレノアに知られて別れを約束した女性だった。エレノアは夫の死後、国連で世界人権宣言の起草に力を尽くした。

ローズヴェルトの後、大統領の任期を2期までとする憲法の修正が1951年に成立した。初代大統領ジョージ・ワシントンが自ら退いて作った慣例を、ローズヴェルトが破ったからである。政府が人々の暮らしに責任を持つという考えを根づかせた大統領として、いまも歴代の大統領の評価でつねに上位に挙げられる。同時に、その強い権限が何をもたらしたかも、問われ続けている。

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