ヤルタ会談

概要
クリミアの宮殿で8日間。ドイツの分割、ポーランドの国境と政府、国際連合、ソ連の対日参戦と千島樺太。ローズヴェルトは2か月後に死んだ。「ヤルタ」は東欧では「売られた」の意味になった。冷戦の地図は、ここで引かれた。
場所
44.50°N 34.17°E · クリミア
関わった人(3)
チャーチルAD1874年11月30日–AD1965年1月24日 · 英フランクリン・ローズヴェルトAD1882年1月30日–AD1945年4月12日 · 米ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · ソ本文
1945年2月、ヨーロッパの戦争は終わりに近づいていた。東からはソ連軍がドイツの国境を越え、ベルリンまで100キロ足らずのオーデル川に迫っていた。西からはアメリカとイギリスの軍が、前年のアルデンヌでのドイツ軍の反撃を退けてライン川へ向かっていた。戦後のヨーロッパと世界をどう形づくるかを決めるため、三つの大国の首脳が集まった。
場所は、ソ連のクリミア半島、黒海に面した保養地ヤルタだった。会談はリヴァディア宮殿で開かれた。かつてロシア最後の皇帝ニコライ2世が夏を過ごした白い宮殿である。アメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトは63歳で、健康は目に見えて衰えていた。大西洋を軍艦で渡り、地中海のマルタから飛行機でクリミアに入る長旅だった。イギリス首相チャーチルは70歳。迎えるソ連のヨシフ・スターリンは、主人として会議を取り仕切った。会談は2月4日から11日まで8日間続いた。

最初の大きな議題はドイツだった。三国は、ドイツに無条件降伏を求め、降伏後は分割して占領することを確認した。チャーチルの強い主張で、フランスにも米英の地区から占領地区を割くことになった。首都ベルリンも分割される。ソ連は、ドイツの侵略で受けた甚大な被害を理由に、多額の賠償を求めた。総額200億ドル、その半分をソ連にという案が、今後の協議の基礎として扱われたが、イギリスは数字を決めることに反対した。
最も長く議論されたのは、ポーランドだった。イギリスとフランスがドイツに宣戦したのは、1939年のドイツのポーランド侵攻がきっかけだった。チャーチルにとって、ポーランドの独立は戦争そのものの目的の一つだった。だが、ポーランドはすでにソ連軍が押さえていた。前年のワルシャワ蜂起では、ソ連軍は川の対岸で動かず、ロンドンの亡命政府に従う国内軍はドイツ軍に壊滅させられていた。ソ連はルブリンで、自分の息のかかった政府を作らせていた。

会談の結論は、ポーランドの東の国境をおおむねカーゾン線とし、ソ連に東部の領土を渡す代わりに、北と西でドイツの領土を与えるというものだった。西の国境の具体的な線は、のちの講和に持ち越された。政府については、ルブリンの政府を、国内と国外の民主的な指導者を加えて「より広い基盤の上に作り直す」とし、できるだけ早く自由な選挙を行うことになった。三国はまた、解放されたヨーロッパの国々で、国民が自由な選挙で自分たちの政府を選ぶことを支えるという宣言に署名した。ローズヴェルトが、ポーランドの選挙はカエサルの妻のように一点の疑いもないものにしたい、と言うと、スターリンは、カエサルの妻にも実は罪があったと聞く、と応じたという話が伝わっている。
ローズヴェルトが最も重んじたのは、戦後の平和を守る国際組織だった。三国は、安全保障理事会の常任理事国が拒否権を持つ投票の仕組みで合意し、4月にサンフランシスコで設立のための会議を開くことを決めた。ソ連は、ウクライナとベラルーシにも議席を求め、ソ連は合わせて3つの議席を持つことになった。この組織はその年の秋、国際連合の成立として発足する。

もう一つ、アメリカがどうしても欲しかったのが、ソ連の対日参戦だった。日本との戦いはまだ続いており、アメリカ軍の首脳は、日本の本土に攻め込めば大きな犠牲が出ると考えていた。秘密の協定で、スターリンは、ドイツの降伏から2か月か3か月のうちに日本に宣戦すると約束した。その見返りとして、ソ連は日露戦争で失った南樺太を取り戻し、千島列島を手に入れ、満洲の港の旅順を借り、大連を国際港とし、満洲の鉄道を中国と共同で経営する、とされた。中国に関わるこれらの取り決めには蒋介石の同意が要るとされたが、中国は会談に呼ばれていなかった。
会談ではまた、戦争中にドイツの側にいたソ連の捕虜や市民を、ソ連に送り返すことも決められた。戦後、ソ連への帰国を拒む多くの人々が、強制的に送還された。その中には、ロシア革命のあと国を離れていたコサックの人々も含まれ、帰国後に処刑されたり、収容所に送られたりした人が少なくなかった。
2月11日、三国は会談の結果を公表した。ローズヴェルトは議会で会談の成果を報告したが、そのわずか2か月後の4月12日に死んだ。ドイツは5月に降伏し、ソ連は約束どおり、ちょうど3か月後の8月8日に日本に宣戦した。ポーランドでは、共産党が主導する政府のもとで反対派が締めつけられ、1947年の選挙は自由とはほど遠いものになった。戦後の取り決めは7月のポツダム会談に引き継がれた。

ヤルタの名は、冷戦の時代、別の意味を帯びるようになった。東ヨーロッパの人々にとって、ヤルタは自分たちが大国によって売り渡された場所を意味した。アメリカでは、病んだローズヴェルトがスターリンに東欧を差し出したという批判が、共和党の右派から繰り返された。会談に国務省の一員として随行したアルジャー・ヒスが、1948年にソ連のスパイだと告発されたことも、その批判に火を注いだ。一方で、ソ連軍はすでに東ヨーロッパを押さえており、ヤルタはその現実を紙の上に書いたにすぎない、という見方もある。2005年には、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュが、ヤルタの合意はミュンヘン会談や独ソ不可侵条約の不正な伝統に連なるものだったと述べ、ロシアの反発を招いた。
日本にとっても、ヤルタは遠い話ではない。ソ連は秘密協定を根拠に千島列島を占領し、その南の島々をめぐる北方領土の問題は、いまも解決していない。会談の写真には、宮殿の中庭で三人が並んで座る姿が残っている。マントにくるまったローズヴェルトは、すでにやつれて見える。