大粛清

概要
党と軍の幹部が自白のうえ処刑された。数十万人が銃殺され、さらに多くが収容所へ送られる。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
関わった人(1)
ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · 命令本文
1934年12月1日、レニングラードの党の指導者セルゲイ・キーロフが、党の建物の廊下で射殺された。犯人は不満を抱えた若い党員だったが、ヨシフ・スターリンはこの事件を、党の内部に巨大な陰謀が潜んでいる証拠として扱った。その夜のうちに、テロ事件の容疑者は弁護人なしで短期間に裁き、刑はただちに執行するという決定が出された。暗殺の背後にスターリン自身がいたのではないかという疑いは長く語られてきたが、確かな証拠は見つかっていない。
スターリンはすでに党の頂点にいた。農業の集団化と5か年計画は、数百万の死者を出す飢饉を伴っていた(ホロドモール)。党内には、かつてレーニンの側近だった古参党員たちが残っていた。1934年の第17回党大会は「勝利者の大会」と呼ばれたが、その代議員と中央委員の多くが、この後の数年で姿を消すことになる。後にフルシチョフが明らかにしたところでは、この大会で選ばれた中央委員と候補139人のうち、98人が逮捕され銃殺された。

1936年8月、最初の見せしめ裁判がモスクワで開かれた。被告は、革命の指導者だったジノヴィエフとカーメネフら16人である。罪状は、国外に追放されたトロツキーと結んでキーロフを殺し、スターリンの暗殺を企てたというものだった。被告たちは法廷で罪を全面的に認め、全員が銃殺された。翌1937年1月にはピャタコフやラデックら、1938年3月には党の理論家ブハーリン、元首相ルイコフ、さらに粛清を指揮していたはずの元内務人民委員ヤゴーダまでが裁かれ、多くが死刑になった。
法廷での自白は、事前の取り調べで作られていた。眠らせない、何日も立たせ続ける、殴る、家族の命を引き換えにする。自白すれば家族は助けると約束された者も多かった。外国の記者や外交官も傍聴したこれらの裁判は、被告が自ら罪を語る姿を世界に見せた。西側には、これを本物の陰謀の証拠だと受け止めた者もいた。

1936年の秋、ヤゴーダに代わって内務人民委員になったのがニコライ・エジョフである。彼の名をとって、1937年から38年の最も激しい時期は「エジョフシチナ」と呼ばれる。1937年7月には、旧富農や「反ソ分子」を対象とする命令が出され、州ごとに、銃殺する者と収容所へ送る者の人数の枠が割り当てられた。地方の機関は枠を満たすだけでなく、上乗せを願い出た。逮捕は、罪があるからではなく、数を満たすために行われるようになった。
軍も例外ではなかった。1937年6月、ソ連軍の近代化を進めていたトゥハチェフスキー元帥ら幹部が、ドイツと通じた陰謀の罪で銃殺された。元帥5人のうち3人、軍管区司令官の大半、師団長や連隊長の多くが逮捕された。経験を積んだ指揮官を大量に失ったことは、1939年の冬戦争でフィンランドに苦戦する一因となり、1941年の独ソ戦の始まりで緒戦の大敗を招いた理由の一つとされる。

粛清は社会の隅々に及んだ。党と国家の幹部、工場の技師、学者、作家、外国の共産党員、少数民族。逮捕された者の妻は「祖国への裏切り者の家族」として収容所に送られ、子どもは施設に入れられた。密告が奨励され、隣人や同僚を告発することが身を守る手段になった。夜中に車が止まる音がすると、人々は自分の番かと耳を澄ませた。ある日誰かが職場から消えても、誰も理由を尋ねなかった。
ソ連崩壊後に公開された内務人民委員部の記録では、1937年と1938年の2年間に約68万人が銃殺された。逮捕された者は150万人を超え、多くが収容所の網の収容所に送られて、そこで死んだ者も多い。この数字は公式の記録に残った分で、実際の犠牲はさらに多いとする見方もある。
1938年の末、スターリンは行き過ぎがあったとして粛清に歯止めをかけた。エジョフは解任され、後任のベリヤのもとで逮捕され、1940年に銃殺された。粛清を実行した者が粛清される。ヤゴーダと同じ道である。同じ1940年、亡命先のメキシコにいたトロツキーも、スターリンが送った刺客に殺された。
記録も作り替えられた。粛清された人物は写真から消され、百科事典の項目は差し替えられ、本は図書館から回収された。同じ写真の異なる版を並べると、人が一人ずつ消えていく様子が分かる。1956年、ニキータ・フルシチョフは党大会のフルシチョフの秘密報告で、スターリンの個人崇拝と、無実の党員に対する弾圧を初めて公に認めた。多くの人の名誉が回復されたが、それには長い年月がかかった。ブハーリンらの名誉回復は、ゴルバチョフ時代の1988年まで待たなければならなかった。