できごと

アペールの瓶詰と缶詰

Appert and canning
AD1810年
重要度 5
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマーク=ノルウェー中央アジアの諸ハン国ペルシアスウェーデンオーストリア帝国スペインフランスNejdモロッコプロイセンAlgiersAirイギリスアイルランド王国シュヴァーベン両シチリア王国Tunisサルデーニャ王国TripolitaniaMecklenburg-StrelitzCyrenaicaザクセンAD1810年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1810年の版図を描いています(27勢力)。

概要

革命政府とナポレオンが、軍の食料を保存する方法に懸賞を出したと伝えられる。パリの菓子職人ニコラ・アペールが、食品を瓶に詰め、コルクで栓をして、湯で長時間加熱する方法を14年かけて完成させた。政府は1万2000フランを与え、その方法を本にして公開させた。なぜ腐らないのかは分からないまま(微生物の発見はパスツールの50年後)。同じ年、イギリスのデュランドがブリキ缶の特許を取った。缶切りが発明されるのは45年後で、初期の缶にはノミと槌で開けよと書いてあった。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

18世紀の終わり、フランスは革命戦争の中にあり、やがてナポレオンの戦役が続く。何十万という兵が国境の外へ出ていくとき、いちばん重い制約は食料だった。持って行けるのは塩漬けの肉、干した魚、固く焼いたビスケット。それ以外は行く先の村から取り立てるしかない。野菜も果物も無い航海では壊血病が出て、船乗りが歯茎から血を流して倒れた。「軍隊は胃袋で行進する」という言葉はナポレオンのものとして伝わるが、言った場面ははっきりしない。

そこで政府が、食べ物を長く腐らせずに保つ方法に懸賞を出した、と伝えられる。賞金は1万2000フラン。懸賞が出た年は1795年とも1800年ごろとも言われ、公示の文書ははっきりしない。確かなのは、1809年から翌年にかけて、内務省がこの額をひとりの菓子職人に払ったことである。

ニコラ・アペールの肖像
ニコラ・アペールの肖像Wikimedia Commons Édouard Foucaud · Public domain

その職人がニコラ・アペールである。1749年、シャンパーニュ地方のシャロン=シュル=マルヌで宿屋の息子に生まれた。宿の台所で働き、ワインの醸造を覚え、貴族の家の料理人を務めたあと、パリのロンバール通りで菓子店を開いた。砂糖漬けや煮詰めた果物を扱う商売で、保存は日々の仕事そのものだった。彼が瓶詰めの試みを始めたのは1795年ごろとされる。完成までにおよそ14年かかった。

やり方は拍子抜けするほど単純である。食べ物を口の広いガラス瓶に詰め、コルクで固く栓をし、針金で縛って封をする。瓶を布でくるみ、湯を張った大釜に沈めて、品目ごとに決めた時間だけ煮る。あとは冷ますだけだ。肉の煮汁、豆、果物、牛乳まで、彼は品目ごとに加熱の時間を試し分けた。

ただ、なぜ腐らないのかは本人にも分からなかった。当時の説明は「空気を締め出すから」で、アペールもそう考えていた。腐敗の正体が微生物だと分かるのは、ルイ・パスツールが自然発生説を退ける1860年代、50年も後のことである。実際には、熱が中の微生物を殺し、栓がふたたび入るのを防いでいた。アペールは原理を知らないまま、のちに低温殺菌と呼ばれる方法の先回りをしていた。

試験は海の上で行われた。1803年ごろ、フランス海軍が彼の瓶を積んで航海に出し、数か月後に開けた肉や野菜は食べられる状態だったと報告された。賞金の条件は方法を公開することで、アペールは特許を取らなかった。1810年、彼は『あらゆる動物性・植物性の物質を数年間保存する技術』という本を出し、手順を誰でも読める形にした。

同じ1810年、ロンドンで商人ピーター・デュランドが、ブリキ(錫を薄く被せた鉄板)の容器で食品を保存する特許を取った。デュランドはフランス人の発明を英国で登録した仲介役だったとみるのが一般的である。ガラスは割れるが、金属は割れない。揺れる船と行軍する兵にとって、この差は決定的だった。特許を買ったブライアン・ドンキンらは、1812年から13年にかけてロンドンのバーモンジーに缶詰工場を作り、英国の海軍と陸軍が最初の大口の客になった。

初期の缶は鉄板が厚く、中身より缶のほうが重いことさえあった。開け方の指示には、ノミと槌で蓋の縁を切れ、と書かれていたと伝えられる。兵士は銃剣で、船乗りは斧で開けた。専用の道具はロバート・イェーツの英国での1855年の考案と、アメリカのエズラ・ワーナーが特許を取った1858年の缶切りを待たなければならなかった。缶詰が生まれてからおよそ45年後である。

新しい保存法には、知られていない危険もあった。初期の缶は継ぎ目を鉛のはんだで接いでおり、中身に鉛が溶け出した。1845年に北西航路を求めて出航し、129人が誰も戻らなかったフランクリン隊の遭難では、のちに発見された遺骨から高い濃度の鉛が出た。缶詰のはんだを原因とする説が長く唱えられてきたが、船の給水装置からの鉛を疑う研究もあり、決着はついていない。密封された瓶や缶の中で加熱が足りないと、空気を嫌うボツリヌス菌が猛毒を作ることも、後になって分かる。

19世紀後半、缶詰はようやく理屈に追いつく。1856年にはゲイル・ボーデンが練乳の特許を取り、南北戦争で北軍が大量に買った。1870年代には蒸気の圧力で100度を超えて加熱できる釜(レトルト)が広まり、安全性が大きく上がった。世紀の終わりには蓋と胴を機械で折り込んで締める方法が実用になり、はんだがいらなくなった。

缶詰は海を越えて日本にも届いた。明治の初め、長崎でフランス人の指導を受けてイワシの油漬けの缶詰が試作され、1877年には北海道の石狩に官営の工場ができて鮭の缶詰が作られた。輸出品として、また兵糧として、缶詰は近代の日本でも急速に広まった。

20世紀の戦争は缶詰で戦われたと言ってよい。第一次世界大戦の塹壕で英国兵は缶入りの牛肉を食べ続け、第二次大戦では1937年に売り出された豚肉の缶詰スパムが、太平洋の島々や英国やソ連へ大量に送られた。沖縄のポークたまごや韓国の部隊鍋は、その補給の名残である。兵站の重さを根本から変えたという点で、アペールの瓶はナポレオン・ボナパルトの時代の発明の中でも長く効いたものの一つだった。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

アペール自身は豊かにならなかった。賞金で建てたパリ郊外マシーの工場は、1814年、ナポレオンを追う同盟軍の進攻で壊された。彼は建て直し、煮詰めた肉の汁を固める工夫や、骨からゼラチンを取る研究を続けたが、事業は振るわなかった。晩年の1822年には、産業を奨励する協会から「人類の恩人」と讃えられたが、暮らしは楽にならなかった。1841年に91歳で亡くなり、マシーの共同墓地に葬られた。墓の正確な場所は分かっていない。

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