概要
革命政府とナポレオンが、軍の食料を保存する方法に懸賞金1万2000フランを出した。パリの菓子職人ニコラ・アペールが、食品を瓶に詰め、コルクで栓をして、湯で長時間加熱する方法を14年かけて完成させた。なぜ腐らないのかは分からないまま(微生物の発見はパスツールの50年後)。同じ年、イギリスのデュランドがブリキ缶の特許を取った。缶切りが発明されるのは45年後で、初期の缶にはノミと槌で開けよと書いてあった。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
**軍隊の問題**。
18世紀末のフランス。革命戦争と、続くナポレオンの戦役。
軍が動くとき、最大の制約は食料である。
塩漬け、干し肉、堅パン(ビスケット)、そして現地徴発。栄養は偏り、壊血病が出る。
ナポレオンの言葉として伝わるもの——「**軍隊は胃袋で行進する**」。
**懸賞**。
1795年(一説に1800年)、フランス政府(総裁政府、後に内務省)が、**食品を長期保存する方法**に対して、**1万2000フラン**の賞金を設けた。
**ニコラ・アペール**。1749年、シャロン=シュル=マルヌ生まれ。宿屋の息子。
菓子職人、料理人、ワインの醸造、そして貴族の家の料理長。パリで菓子店を開いていた。
彼は、1795年頃から実験を始めた。**14年**かかった。
**方法**。
(1)食品を、広口の**ガラス瓶**に詰める。 (2)**コルクで栓をし**、針金で縛り、封蝋で密閉する。 (3)瓶を布で包み、**湯を張った釜に入れて、長時間加熱する**(品目によって時間を変える)。 (4)冷ます。
これだけである。
**なぜ腐らないのか、彼には分からなかった**。
微生物が腐敗の原因であることは、まだ知られていない。パスツールが自然発生説を否定するのは、**50年後**の1860年代である。
当時の説明は、「空気を排除するから」だった。アペール自身も、そう考えた。
正しくは、加熱によって微生物を殺し、密封によって再侵入を防ぐ、である。彼は、原理を知らないまま、**低温殺菌(パスツーリゼーション)を先取りしていた**。
**証明**。
1803年、フランス海軍が、彼の作った保存食を積んで航海の試験を行った。肉汁、野菜、牛乳、果物。
結果は良好だった。
1809年、賞金が授与された。条件は、**方法を公開すること**。彼は特許を取らず、1810年に本を出した。
『**あらゆる動物性および植物性の物質を、数年間保存する技術**』(L'art de conserver)。
**イギリス**。
同じ1810年、ロンドンの商人**ピーター・デュランド**が、**ブリキ缶**(錫めっきした鉄板)を使う保存の特許を取った。
(デュランドはフランス人からアイデアを得た仲介者だった、というのが定説である。)
ガラスは割れる。金属は割れない。軍と海軍にとって、これは決定的だった。
1813年、ブライアン・ドンキンとジョン・ホールが、ロンドンに世界最初の缶詰工場を作った。イギリス海軍と陸軍が顧客になった。
**缶切り**。
初期の缶は、**鉄板が厚く、非常に重かった**(中身より缶のほうが重いこともあった)。
缶に印刷された開け方の指示——「**ノミと槌を使い、蓋の縁に沿って切り開くこと**」。
**缶切りが発明されるのは、1855年**(ロバート・イェーツ、イギリス)と1858年(エズラ・ワーナー、アメリカ)。缶詰の発明から45年後である。
その間、兵士は銃剣で開け、船乗りは斧で開けた。
**副作用**。
**(1)鉛**。初期の缶は、継ぎ目を**鉛のはんだ**で接いでいた。中身に鉛が溶け出す。
**フランクリン隊**(1845年、北西航路を求めた129人が全員死亡した探検)の遺体から、高濃度の鉛が検出された。原因を、缶詰のはんだとする説が長く唱えられた(近年は、船の給水系統からの鉛の可能性も指摘され、議論が続いている)。
**(2)ボツリヌス**。密封された嫌気的な環境は、ボツリヌス菌にとって好適である。加熱が不十分だと、猛毒が生じる。
(ボツリヌスの名は、ラテン語の botulus〈腸詰〉から。ソーセージの中毒として最初に記述された。)
**その後**。
- 1856年、ゲイル・ボーデンが**練乳**の特許を取った。南北戦争で北軍が大量に使った。 - 1860年代、パスツールが微生物と腐敗の関係を明らかにし、加熱の意味が理解された。 - 1874年、**レトルト**(蒸気圧力釜)が導入され、100度を超える温度で処理できるようになった。安全性が飛躍的に上がった。 - 1890年代、**二重巻き締め**(缶の蓋と胴を機械で折り込む)が実用化され、はんだが不要になった。
**軍と保存食**。
第一次大戦の塹壕で、兵士は缶詰の牛肉(コーンビーフ、ブリー・ビーフ)を食べ続けた。
第二次大戦、アメリカのKレーションとCレーション。1937年に発売された**スパム**が、太平洋の島々と、イギリスと、ソ連へ、大量に送られた(レンドリース)。
(沖縄のポークたまごおにぎり、韓国のプデチゲ〈部隊鍋〉、ハワイのスパムむすびは、いずれもこの供給の跡である。)
**アペール**。
賞金を得た後、彼は工場を建てた。1814年、連合軍の侵攻でその工場が破壊された。
彼は再建し、牛肉のブイヨンの濃縮(ブイヨン・キューブの祖先)、ゼラチンの抽出、牛乳の保存を続けた。
貧しいまま、1841年、92歳で死んだ。**共同墓地**に葬られた。墓の場所は分かっていない。