インパール作戦

概要
補給の見込みがないまま山を越えさせ、9万人のうち3万人が死んだ。多くは戦闘ではなく飢えと病で死んでいる。反対意見が通らない組織の帰結として語られる。
場所
24.82°N 93.94°E · インド・マニプル州
本文
1942年、日本軍はイギリスの植民地だったビルマ(いまのミャンマー)を占領した。ビルマとインドの国境には、標高2000メートル級の山が南北に連なり、深い密林と急な谷が続く。道らしい道はほとんど無く、雨季には一年の雨の大半が数か月のうちに降る。この山脈が、日本軍とインドのイギリス軍を隔てていた。
1943年になると、戦争の流れは日本に不利になっていた。太平洋ではミッドウェー海戦とガダルカナルの戦いを境に押し返され、ビルマでもイギリス軍が反攻の準備を進めていた。ビルマ方面の第15軍の司令官、牟田口廉也中将は、守るより先に攻めるべきだと主張した。国境を越えてインド北東部のインパールを取れば、イギリス軍の反攻の拠点をつぶせる。インドの独立を目指すスバス・チャンドラ・ボースのインド国民軍とともに進めば、インドの民衆の反英の動きをかき立てられるかもしれない。

作戦には、はじめから反対が多かった。最大の問題は補給だった。山を越えて弾薬と食料を運ぶ道も車も足りない。第15軍の参謀長は補給の難しさを訴えて更迭された。上級の司令部や大本営にも懸念はあったが、劣勢の続く戦局で何か明るい戦果をという空気もあり、1944年1月、作戦は認可された。
作戦の名は「ウ号作戦」。第15軍の3個師団、約9万人が、3月の初めから国境のチンドウィン川を渡り、山へ分け入った。インパールを3週間ほどで取るという見込みで、兵が携えた食料もおよそ20日分だった。足りない分は、イギリス軍の補給の拠点を奪って補うことになっていた。

荷物を運ぶため、そして途中で食べるために、牛や山羊、羊を大量に連れて行った。モンゴルの遠征にならって「ジンギスカン作戦」とも呼ばれたこのやり方は、すぐに行き詰まる。牛は川を渡れずに流され、急な山道で谷に落ち、餌の草が無くて弱った。大砲は分解して人が担いだ。
当初、日本軍は速かった。北の第31師団は4月の初めにインパールの北のコヒマに達し、イギリス軍の守備隊を包囲した。南からは第33師団、中央からは第15師団がインパールに迫った。だが、イギリス軍の司令官スリムは、包囲されても守備隊を退かせなかった。輸送機で食料、弾薬、兵、さらには増援の師団までを空から運び込み、インパールとコヒマの陣地を持ちこたえさせた。日本軍が当てにしたイギリス軍の物資は、奪えなかった。

5月、雨季が来た。山道は泥の川になり、後ろからの補給はほとんど途絶えた。弾が尽き、食べ物が尽き、兵たちは飢えとマラリアと赤痢で倒れていった。前線の師団長たちは、作戦の中止や後退を求めた。南の第33師団長は、悲観的すぎるとして解任された。中央の第15師団長も、病を理由に職を解かれた。北の第31師団長佐藤幸徳は、補給が来ない以上戦えないとして、命令を待たずにコヒマから師団を退かせた。日本陸軍で、師団長が独断で撤退したのは前例の無いことで、佐藤も罷免された。結局、三人の師団長がすべて作戦の途中で職を去った。
6月の初め、ビルマ方面軍の司令官河辺正三は牟田口と会った。二人とも、作戦がもう成り立たないことは分かっていた。だが、どちらも中止を口に出さなかった。牟田口は戦後、中止を言い出したかったが言えず、顔色で察してほしかった、という趣旨の回想を残している。正式に中止が決まったのは7月の初め、作戦開始から4か月後だった。

撤退は、作戦そのものより悲惨だった。豪雨の中、飢えて病んだ兵たちが、来た山道を引き返した。動けなくなった者は道ばたに残され、退路には遺体と骨が連なった。兵たちはこの道を「白骨街道」と呼んだ。死者は約3万人、傷病者を合わせると、作戦に加わった兵の大半が戦えなくなったとされる。その多くは、戦闘ではなく、飢えと病で死んでいる。
インパールでの大敗によって、ビルマの日本軍は守る力を失った。1945年、イギリス軍はビルマに攻め込み、ラングーンを取り戻す。牟田口は戦後も生き、晩年まで、作戦は正しかった、部下の師団長たちが命令に従わなかったから負けたのだと主張し続けた。

戦後の研究書『失敗の本質』(物語「『失敗の本質』で読む日本軍」)は、この作戦を、ほかの敗北とともに日本軍の組織の失敗として分析した。補給の裏づけを欠いた計画が、なぜ通ってしまったのか。誰もが無理だと分かっていながら、なぜ止められなかったのか。上の者が強く主張すると反対意見が通りにくく、人間関係への配慮が合理的な判断に勝ってしまう。その指摘は、軍隊だけでなく、いまの会社や役所にも当てはまる教訓として、繰り返し引かれている。