広島・長崎への原爆投下

概要
一発で都市が消えた。人類が自らを絶滅させうる力を持ったことが、この日から前提になる。
場所
34.39°N 132.46°E · 日本・広島県
関わった人(1)
昭和天皇AD1901年4月29日–AD1989年1月7日 · 玉音放送で終戦を告げる本文
1945年8月6日午前8時15分、アメリカの爆撃機B-29「エノラ・ゲイ」が、広島の上空でウランを使った原子爆弾を落とした。爆弾は町の上空約600メートルで炸裂した。3日後の8月9日午前11時2分、別のB-29がプルトニウムを使った爆弾を長崎に落とした。この機の第一の目標は福岡県の小倉だったが、雲と煙で目標が見えず、長崎に向かった。
爆心の近くでは、地表の温度が数千度に達したと推定されている。人も建物も一瞬で焼け、爆風が町をなぎ倒した。続いて火災が広がった。その年の暮れまでに死んだ人は、広島で約14万人、長崎で約7万人と推計される。数に幅があるのは、市役所も病院も戸籍も同時に失われ、軍人や朝鮮半島から来ていた人々、疎開してきた人々など、町にいた人の数そのものが分からなかったためである。

爆発の熱と衝撃で死んだ人のほかに、放射線を浴びて数日から数週間後に髪が抜け、血を吐いて死んでいく人が大勢いた。爆発の後に降った黒い雨や、救援や家族を捜すために後から町に入った人も被曝した。生き延びた人々も、白血病やがんの危険を長く抱え、結婚や就職で差別を受けることもあった。原爆による死は、その日に終わったのではない。数え終わりが無い。
この兵器は、アメリカがイギリス・カナダと進めたマンハッタン計画で作られた。もともとは、ナチス・ドイツが先に原爆を持つことを恐れて始まった計画である。科学部門を率いたのはロバート・オッペンハイマーだった。1945年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠でトリニティ実験が成功する。ドイツはその2か月前に降伏していた。

7月26日、アメリカ・イギリス・中国は、日本に無条件降伏を求める宣言を出した(ポツダム会談)。日本の鈴木貫太郎首相は、これを「黙殺する」と述べた。日本政府は、中立条約を結んでいたソ連に和平の仲介を頼もうとしていた。投下の目標を選ぶ段階では、京都も候補に挙がっていたが、陸軍長官スティムソンの反対で外されたとされる。
8月8日、ソ連が日本に宣戦し、翌9日未明、満洲に攻め込んだ。長崎への投下はその同じ日だった。8月14日の御前会議で、昭和天皇の判断によりポツダム宣言の受諾が決まり、翌15日、天皇の声がラジオで流れた(玉音放送)。その中には、敵が新たに残虐な爆弾を使って罪のない人々を殺傷している、という一節がある。

投下の判断をめぐる議論は、いまも決着していない。アメリカで長く語られてきたのは、ハリー・トルーマン大統領の判断が、本土への上陸作戦で生じる膨大な犠牲を避け、戦争を早く終わらせたという説明である。これに対して、日本はすでに降伏に傾いていた、決め手になったのはソ連の参戦だった、とみる研究がある。戦後の世界でソ連に力を見せつける政治的な狙いを重く見る説もある。投下の直前、計画に関わった科学者の一部は、無警告で都市に使うことに反対する意見書を出していた。どの説明も一つだけでは、すべてを言い尽くせない。
戦後しばらく、日本を占領したアメリカは被害の報道を厳しく制限した。被害の実態が広く知られるようになったのは、占領が終わった1950年代からである。1954年、太平洋のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で、日本の漁船の乗組員が被曝すると、核兵器に反対する署名運動が全国に広がった。翌1955年には、核戦争が人類を滅ぼしうると訴えるラッセル=アインシュタイン宣言が出された。

核兵器はその後、アメリカだけのものではなくなった。1949年にソ連が、続いてイギリス、フランス、中国が持ち、1962年のキューバ危機では、世界は核戦争の一歩手前まで行った。1968年に核拡散防止条約が結ばれて、持つ国を増やさない仕組みができたが、インド、パキスタン、北朝鮮などがその外で核を持った。
それでも、広島と長崎の後、核兵器が戦争で使われたことは一度もない。使えば同じことが自分に返ってくるという計算に加えて、被爆者たちが自らの体験を語り続けたことが、使ってはならないという感覚を世界に根付かせたと考える人は多い。2017年には核兵器禁止条約が採択され、2024年、被爆者の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受けた。

一発で都市が消えるという事実は、それ以来、人類のすべての戦争の前提になった。広島の爆心の近くでは、ドームの骨組みだけが残った県の産業奨励館が、原爆ドームとして保存され、1996年に世界遺産に登録された。長崎の爆心に近い浦上は、江戸時代の禁教を生き延びたキリシタンの子孫が多く住む地区で、東洋一ともいわれた浦上天主堂も崩れ落ちた。
被爆から80年が過ぎ、直接の体験を語れる人は年ごとに少なくなっている。